仙石秀久

豊臣秀吉の家臣であり、立身出世を成し遂げた人物です。しかし人間の経歴は、たった一つの傷ですべてがご破算になるものということを、身を以て教えてくれています。

出自

1552年、美濃の仙石久盛の四男として生まれました。仙石氏は斉藤氏に仕え、台頭著しい織田信長とは敵対関係にありました。秀久は越前の萩原氏に養子に出されていたのですが、兄たちがなくなったために呼び戻され、家督を相続しました。

大名への道

斉藤龍興が稲葉山城を落ち延び、美濃を信長が掌握すると、秀久は織田氏に仕えることになりました。信長は秀久を気に入ったようで、秀吉の与力に任じました。
秀吉の家臣として秀久は数々の戦功を重ね、浅井朝倉連合軍との戦いでは、働きを認められて近江に千石を与えられています。
本能寺の変が起きるまでには、さらに軍功を挙げて五千石まで加増されています。明智光秀との戦いが始まると、秀久は淡路の抑えとして派遣されました。光秀方についた豪族達の鎮圧が任務でした。続いて、柴田勝家との戦いの際には四国に送り込まれ、長宗我部氏の動きを牽制しました。
一時は戦いに敗れて戦線を下げることとなりましたが、瀬戸内海をよく守って戦略的な勝利を達成しています。これにより秀久には淡路五万石が与えられました。秀吉の家臣には大名へと出世した者が何人もおりますが、最も早かったのが秀久でした。
秀久の出世はまだ終わらず、さらに長宗我部氏を屈服させるための四国遠征でも功を上げ、讃岐が与えられています。

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急転直下

立身出世の代表者である豊臣秀吉の家臣としてふさわしい立身出世を遂げていた秀久でしたが、突如として改易される事となります。
紀伊が制圧され、四国の長宗我部氏も秀吉に服したあと、次なる標的は九州の島津氏に定められました。九州統一を目前としていた島津氏は秀吉の威勢にも屈することなく、戦いを買って出ました。
その島津氏に対する先鋒として送り込まれたのが秀久でした。秀吉の戦略では、先鋒として送り込んだ六千の兵には府内城の守備を徹底させておき、年が明けてから主力軍二十万を送り込んで決着をつけることになっていました。
そのため秀久に対しても持久戦が命じられていたのですが、じりじりと状況が悪化するなか、我慢しきれなくなって川を越えて攻撃を仕掛けてしまいました。島津軍のお家芸である釣り野伏せにかかった秀久たちは勇戦し、一時優勢になるも、敗北を喫しました。この戦いで、長宗我部元親の世継ぎであった信親が戦死、十河存保も討ち死にしています。

敗れた秀久は府内城を捨て、小倉城へと退避。その上小倉まで捨てて領地の讃岐へと帰ってしまいました。秀吉は秀久に対し軍艦という責任ある地位を与えていたにもかかわらず、与えた命令を破って敗北した挙句、持ち場を放棄するというのはどう言い繕っても許されるものではありませんでした。
秀久は改易され、高野山への蟄居が命じられてしまいます。
ところが、この命令すらも破ってしまうのです。

名誉挽回

秀吉の次なる征伐目標は小田原城の北条氏でした。本来なら高野山にいるはずの秀久は、徳川家康の陣にいました。無という一字の旗印を掲げ、陣羽織に無数の鈴をつけて、です。鈴鳴り武者と異名をとるほどに鈴をつけたまま、一兵卒として果敢に槍働きを見せました。その働きは目覚しく、功を認められて秀吉に再び謁見を許され、金の団扇を授けられました。さらに、信濃に小諸城を与えられて五万石の大名へと復帰したのです。

晩年

秀吉が没すると、秀久は家康に近づきました。関ヶ原の合戦の際には徳川秀忠の陣にあり、秀忠が関ヶ原への遅参を叱責された際にはそれをかばい、取りなしています。その甲斐もあってか許され、秀忠は秀久に感謝したといいます。
秀忠には特に信頼されたようで、外様大名でありながら特別な厚遇を受けました。
1614年に病死し、家督は三男の忠政が継ぎました。

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