戦いに敗れて今川氏親の家来となり、息子や孫が謀反の疑いによって討たれるという不幸な経験をした武将でした。
出自
生年は定かではなく、1479年、もしくは1489年の生まれとされています。遠江の浜名湖北東に位置する井伊谷を領していた、井伊直氏の子として誕生しています。直平が家督を相続した時期、直氏の没年などは不明ですが、1516年の頃には直平が当主であったようです。
今川氏の家臣になるまで
遠江は今川氏が守護職を務めておりましたが、1400年代に入って斯波氏に守護職を奪われました。今川氏としてはこれを奪還することは悲願であり、氏親の父も遠江での戦いで命を落としています。後を継いだ氏親も斯波氏との戦いは最重要事項であり、家督争いを制して一段落した1494年頃から、遠江に向けて兵を動かしました。今川氏の遠江掌握までにはおよそ二十年が過ぎますが、最初の十年間の総大将はかの北条早雲でした。
井伊氏は斯波氏に味方して戦っておりましたので、直接矛を交えたかまでは定かではありませんが、直平は早雲を敵に迎えていたことになります。遠江における抵抗勢力の中でも井伊氏は最後まで残っており、曳馬城の大河内貞綱と共に戦いました。
この戦いに敗れた直平は今川氏に従うこととなり、監視役として小野兵庫助が家老として送り込まれることとなります。
先立つ息子達
直平には四人の息子がありました。戦いに敗れ今川氏に属して後、嫡男直宗に家督を譲っています。戦国のならいに従い、一度は激しく争ったものの、家来となって以後は今川氏の臣として忠実に主命を果たしています。
新しく今川氏の当主となった義元の下、太原雪斎を大将とした軍勢が三河へと進軍しました。直宗も参陣しましたが、この戦いで亡くなっています。野伏に討たれたそうです。このため、井伊氏の家督は直宗の子直盛に受け継がれることになります。
ところが直盛には男子がなかったため、叔父の直満の子直親を養子に迎え、跡継ぎに据えようとしました。これを妨害するために、直満・直義兄弟に謀反の兆しありと今川義元に讒言したのが、小野兵庫助の後を継いで井伊氏の家老職にあった小野政直です。義元は両名を切腹させ、直親をも手にかけようとしましたので、井伊氏は直親を寺に逃がしてほとぼりが冷めるのを待ちました。
政直が亡くなると直親も復帰できたのですが、今度は桶狭間の合戦で直盛が討ち死にしてしまいます。後継者となった直親ですが、今度は政直の子政次が、直親が徳川家康に内通していると讒言したことで、それを信じた今川氏真によって討たれてしまいました。
四人目の男子直元も早くに病没しているというわけで、直平は息子四人全員と、孫二人の死を経験したことになります。そういう時代ですから仕方のないこととは言え、もし自分が、あるいは斯波氏の勢力が今川氏と対等に渡り合って勢力を保持していたならば、六人のうち五人まで死を避けられたかもしれません。無念がなかったわけではないのではないでしょうか。
直平の死
直親が討たれたあと、井伊氏の正当な男子継承者が途絶えました。直親には虎松と言う子がおりましたが(後の井伊直政)、まだ二歳児です。しかも嘆願が受け入れられて助命されたとはいえ、今川氏真からは抹殺指令が出たくらいです。家督を相続させることは難しかったのでしょう。自然な流れとしては、直平が一時的に井伊氏の当主となったのではないかと思われます。しかしこの直平すらもが一年たたずに没し、後を託された縁戚の中野直由も翌年には戦死するに至って、井伊谷を治められる者がいなくなってしまったのです。
そこで虎松の成長を待つ間、出家の身であった直盛の娘次郎法師が還俗し、井伊直虎として女領主を務めることとなったのです。