伊達宗城

七万石の小藩の藩主でありながら、四賢候に数えられ、明治政府でも重要な役職を担うなどの実績を残している人物です。

活躍を始めるまで

1818年の誕生です。実父は山口直勝という宇和島藩の旗本なのですが、宗城の血筋は少し込み入っています。直勝の祖父が宇和島藩五代藩主の伊達村候ですので、宗城は藩主の血を引いていました。村候も遡れば伊達政宗にたどり着きますので、宗城は確かに政宗の子孫に当たります。
しかしもちろん宗城は藩主に近い位置に生まれたわけではなかったのですが、時の藩主宗紀に男子がなかったため養子となり、隠居した宗紀を継いで藩主となりました。

藩政改革

宇和島藩は先代の宗紀以来発展を遂げていました。宗紀も優れた藩主であり、藩政の改革によって財政は潤っていました。宗城はそれをさらに発展させました。また、脱獄して幕府に追われていた蘭学者・高野長英を招いて兵装の洋式化を進めさせ、オランダ語の文献を翻訳させました。長州藩からは後の大村益次郎を招聘しました。蘭学者であった大村には、オランダ語が読めるのだから、文書を調べながら蒸気船くらい作れるだろうということで、洋式の近代軍艦の建造を命じました。この軍艦は、薩摩藩の建造に一歩遅れて国産第一号にはなりませんでしたが、外国人技術者を伴わない、日本人だけで作った軍艦としては最初のものとなっています。

公武合体

幕政に対しては、島津斉彬、松平春嶽、山内容堂らと共に老中阿部正弘に改革を訴えました。正弘は四賢候らの意見を参考に改革を続けましたが、新たに大老となった井伊直弼は四賢候と真っ向から対決しました。四賢候が新将軍に徳川慶喜を推すのに対し、直弼は徳川慶福を推薦していたのです。
結局直弼は反対派をまとめて謹慎させるという、安政の大獄を引き起こします。これによって宗城も隠居を余儀なくされ、藩主の座は養父の子である宗徳に譲りました。とはいえ実質的な統治権力は宗城に残っており、直弼が暗殺されて謹慎が解けて以後は公武合体の実現のために活動しています。
公武合体は幕府と朝廷の関係を改善して、幕府主導で国内の統率を強化する思想でしたが、参与会議の失敗によって破綻し、薩摩・長州の雄藩によって倒幕が推進されることとなります。宗城は倒幕に荷担する気にはならなかったようで、土佐藩が提唱した大政奉還論を支持しました。慶喜が大政奉還を行うと、新政府軍が倒幕を進めました。なんとかそれを押しとどめ、国内の争乱を防ぎ、慶喜を新政府に招こうとしましたが失敗。
江戸開城後の奥羽越列藩同盟との戦いでは、同族の伊達氏も含まれる敵と戦うのは忍びなく、軍事参謀の職を辞任したといいます。

新政府から明治政府

重要な役職を歴任しており、王政復古に伴って議定に任じられたのを始め、軍事参謀や、外国事務総督、大阪裁判所副総督、民部卿、大蔵卿、欽差全権大臣(清国との外交を任された全権大使)に及びます。ただし、どれもこれもが短期間の活動に留まっています。
最後の活動としては、日清修好条約の調印があり、この締結については一騒動ありました。当時の清は欧米諸国と不平等条約を結ばされており、清は日本とも不平等条約を結ぶことを拒絶しましたが、宗城は清と平等条約を締結することにしました。これによって交渉はスムーズに運んだのですが、諸外国からその条約の内容が軍事同盟を含むのではないかという非難受けたのです。責任を取ることになった宗城は官職を辞し、後は各国からの賓客の接待役を務めました。この時期ハワイ国王を接待したこともあったのですが、この国王こそは、外国の国家元首として初めて日本を訪れた人物になります。接待に対する返礼として、宗城は勲章を授けられました。
没年は1892年。病気で倒れたようです。

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