蒲生賢秀

六角氏の重臣の一人であり、味方がことごとく降伏する中、ただ一人籠城の構えを見せた勇将でもあります。織田信長の信頼厚く、安土城の留守居役を与えられています。

出自

1534年の生まれで、父は蒲生定秀になります。定秀は六角定頼に仕え、浅井氏や三好氏と戦って功を上げており、商業政策にも従事するなど、六角家中で重要な地位を占めていました。対外政策も独自に展開しており、伊勢の神戸具盛、関盛信などに娘を嫁がせて婚姻を成立させています。この婚姻が、後に蒲生氏を救うことになりました。
賢秀の活躍が歴史書に出てくるのは観音寺騒動を待つことになりますが、この段階ではまだ蒲生氏の当主は定秀だったかもしれません。

観音寺騒動

それまで従属していた北近江の浅井氏の当主が長政に変わり、突如として六角氏に牙をむきました。六角氏と浅井氏の間で行われた合戦では、二倍の戦力があったにもかかわらず六角氏の敗北に終わりました。
これだけでも六角氏の家中には打撃があるという中、六角氏の当主義治は重臣を不当に誅殺するという事件を起こし、家臣達の不満を爆発させてしまいました。義治達は居城を追われることとなったのですが、それを助けたのが定秀でした。定秀は主君を匿い、家中の混乱の収拾に努め、調停を行って、なんとか主君達が観音寺城へ戻れるように手はずを整えました。
このとき六角家臣団が主家に要求したことは、六角氏の横暴を防ぐための分国法を受け入れることでした。この六角氏式目と呼ばれる分国法は、定秀を初めとした有力家臣によって起草されています。
この騒動によって六角氏当主よりも、家臣の定秀の方が力を持つというようなことにもなりましたが、当時流行していた下克上という形にはなっていません。返済の約束は取り付けたにしても、主君に金銭を貸し付けたりしています。

観音寺の戦い

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を目指しました。六角氏の領土は上洛の道筋にありますので、信長は六角氏に使者を送り、協力を求めました。しかし義治はそれを拒絶し、合戦に至ります。
観音寺城の戦いと呼ばれる合戦ですが、戦いは実際のところ、たった一日で勝敗が決しました。木下秀吉(豊臣秀吉)の夜襲により支城が一夜で陥落したことに続いて、他の城も降伏し、動揺した義治は甲賀へと落ち延びていったのです。
ところが、観音寺城を囲む多数の支城が次々と開城する中、ただ一つ日野城だけが籠城を続けました。このときの城主は賢秀とされておりますので、おそらくこの時期までには家督が賢秀に受け継がれていたものと思われます。
日野城は千の兵で、柴田勝家らの攻撃を支えておりましたが、そこに信長の家臣となっていた神戸具盛がただ一人訪ねてきたのです。具盛は賢秀の妹の夫でありました。賢秀は具盛の説得に応じ、信長の家臣となることを選びます。
信長には嫡男の鶴千代(後の氏郷)を人質として差し出しましたが、二人はたいそう気に入られたようです。事実、氏郷は後に信長の娘を娶りますし、賢秀は信長の留守を預かって安土城を守っています。

本能寺の変

信長が明智光秀に討たれたときも、賢秀は安土城にいました。留守居役は他にもいたのですが、知らせを受けてすぐに逃亡しています。それが幸いしたのかどうか、守備の全指揮権は賢秀に集まりましたので、直ちに日野城から兵士を呼び寄せ、信長の家族達を連れて脱出しました。このとき、安土城に火をつけず、財宝も持ち出さなかったことを臆病と評する者もいたとされております。
日野城に立て籠もった賢秀の下には、光秀からの使者が送られてきて、近江の半分を条件に味方につくように誘われました。賢秀はそれを拒絶し、光秀との戦いに備えましたが、幸いなことに光秀は日野城を攻撃する前に秀吉に敗れ去りました。
それから程なくして家督を氏郷に譲り、二年後に亡くなりました。定秀が亡くなってからまだ五年。五十一歳でした。

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