六角義賢

織田信長の上洛に伴って姿を消したと思われているマイナーな大名ですが、実はその後も長く信長に抵抗し、天寿さえ全うした怪しげな人物でした。
誕生から家督相続まで
六角定頼の子として、1521年に誕生しました。当時の六角氏は近江の守護職にあり、北近江に勢力を持ち、主家筋であった京極氏の権力を簒奪した浅井氏とは抗争中でした。浅井氏の当主亮政が亡くなり、久政へと代替わりすると、久政は六角氏や京極氏との争いを避けるために六角氏に従属しました。
京にほど近い位置を占めていた六角氏は、将軍家と争う三好長慶とも剣を交えており、足利義晴・義輝親子や、細川晴元を匿っています。
1552年に定頼が亡くなり、家督を継ぎました。
浅井氏との戦いと、観音寺騒動
父に似ず武勇には優れなかったという浅井久政は六角氏の傘下に入りましたが、家臣達はそれに不満をくすぶらせていました。1559年に義賢は家督を嫡男義治に譲り、形の上では隠居をしたのですが、その翌年、浅井長政が六角氏との対決姿勢を明らかにし、野良田の合戦が起きます。義賢自ら倍以上の兵を率いた戦いでしたが、長政に敗北します。
この敗戦の影響によって六角氏が衰退し、滅亡に繋がったとする見方もあるようですが、敗戦の翌年には畠山高政と共に上洛して、一時的にではありますが三好氏の軍勢を京都から追い払ったりしています。
その後義治が重臣であった後藤賢豊を誅殺するという事件が起きます。家臣達の反感を招いた義賢親子は共に居城、観音寺城を追われることになりました。一応は、重臣であった蒲生定秀・賢秀親子の働きによって城に帰ることはできましたが、六角氏の統率力には疑念が持たれ、六角氏の権力を限定する分国法の承認と、家督を義治の弟義定に譲ることが求められました。
六角氏が混乱している中、浅井長政は美濃の斉藤龍興を攻めました。斉藤氏と同盟関係にあった六角氏は援軍を出し、浅井氏の領土に侵攻したのですが、この部隊はとって返してきた浅井軍によって撃破されてしまいました。
織田信長との戦い
1565年に足利義輝が暗殺されると、弟の義昭は六角氏を頼って落ち延びてきました。一時は義昭を匿った義賢でしたが、三好三人衆の調略を受けて方針を転換、義昭は朝倉氏の下へと逃れました。
その義昭を奉じて信長と長政が上洛を始めると、六角氏が立ちはだかりました。信長は再三使者を送って協力を要請したようですが、義賢・義治親子はこれを拒絶しました。
両者の戦いは観音寺城の戦いと呼ばれはしますが、観音寺城は戦わずして落城しました。両軍の衝突からたった一日で箕作城と和田山城の二城が落城したことで、義賢親子は戦意を失い甲賀へと落ち延びました。観音寺城を取り巻く十八の支城も次々と降伏していきましたが、ただ一つ日野城だけが援軍も期待できない中で千の兵で抵抗の構えを見せていました。この日野城の城主が蒲生賢秀でした。
1570年に入り、織田氏と浅井氏の同盟が破綻し、第一次信長包囲網が敷かれると、浅井・朝倉・三好三人衆などと連携し、南近江で織田の軍勢を苦しめました。
ひとまずは和睦で終わった第一次包囲網ですが、程なくして第二次包囲網が敷かれると、再び近江でゲリラ戦を展開して信長の手を焼かせました。義賢が本拠とする甲賀は忍びの里として有名であり、非常に攻めづらかったようです。
武田信玄が没し、朝倉氏、浅井氏が滅び、敵を減らして余裕ができた織田軍の勢いは増し、次第に追い詰められていきましたが、討たれることなくしぶとく生き延びました。
畿内から反織田勢力が駆逐されてから本能寺の変の頃までどう過ごしていたのかは、資料に残されていないようです。確かなことは、晩年豊臣秀吉が天下人となったあと、義治と共に秀吉の御伽衆として側近くに仕えているということです。
1598年、秀吉が亡くなったのと同じ年に亡くなっています。











