細川藤孝

足利義輝から始まり、多くの主君に仕え、そのいずれにおいても功を上げた名将です。また当時最高の文化人でもあり、勅命によって助命されるという体験もしています。
出自
1534年、三淵晴員の次男として誕生しました。晴員は和泉守護細川氏の生まれで、将軍に仕えていた三淵氏の養子に入って家督を継いでいました。藤孝は子供の頃に、細川元常の養子となり、その家督を受け継ぎます。当時の細川氏は三好長慶の攻撃にさらされて、義輝と共に京を落ち延びている状況でした。
藤孝の藤の一字は、義輝から拝領したものです。義輝は改名する以前、義藤と名乗っていました。
足利時代
藤孝の大仕事として最初に出てくるのは、足利義昭の救出です。1565年、義輝が三好三人衆によって暗殺されました。三人衆は義輝の家族まで手にかけており、義昭もまた松永久通によって捕らえられて幽閉状態でした。これを和田惟政等と共に救い出し、近江や越前へと逃れていったのが藤孝です。
義昭が十四代将軍になれるよう働きかけを続けましたが、後ろ盾となる勢力もなく、交渉は難航しました。そんな中、美濃を手にして勢いを増す織田信長が上洛の手伝いをすると名乗りを上げたのです。
以後は信長に助けられて上洛を果たし、義昭は無事に将軍の座につくことになります。
織田時代
文化人として名高い藤孝ではありますが、武将としての働きにも事欠かず、信長の下でも数々の戦功を上げています。越前では一向宗と戦い、大阪の本願寺とも戦い、紀伊の雑賀衆とも戦っています。また信長に対して謀反を起こした松永久秀の信貴山城攻略戦にも参加するという具合で、数々の戦いを経験しています。
畿内が一段落した後は、明智光秀の与力として共に西方の攻略戦を続けました。藤孝の嫡男忠興が光秀の娘と結婚したため、光秀とは縁戚にもなりました。
しかし、本能寺の変が起きてしまいます。光秀は関係の深かった藤孝にも協力を要請しましたが、藤孝はこれを拒絶して出家、幽斎玄旨を名乗りました。幽斎は文化人としての雅号。玄旨が法名です。同時に細川家の家督を忠興に譲って隠居することで、本能寺の変に対しては中立を守りました。
文武両道
武芸においては百般を修め、剣術は塚原卜伝に学び、弓術でも印可状を受けるなど、武芸の才能にあふれておりました。体力も強く、暴れた牛を角をつかんで投げ倒したなどとも言われています。
その上文化人としても名高く、茶道に蹴鞠、囲碁、猿楽などにも通じているという有様で、文武両道という形容が、これほど似合う人物もなかなか見当たりません。さらに和歌の道では、三条西実枝より一子相伝の秘伝を伝えられ、二条流の後継者となっています。そしてこのことが、後の勅命に繋がるのです。
関ヶ原
本能寺の変の後、藤孝は豊臣秀吉の下でも数々の戦功を上げました。文化人としても重用され、側近くで仕えたと言います。しかし秀吉が亡くなると、徳川家康と豊臣家の関係は悪化し、関ヶ原の戦いへと続いていきます。
細川家は忠興が家康に味方しておりましたので、藤孝の居城田辺城は、西軍のただ中に取り残された形になります。当然城は包囲され、たった五百の兵で、一万五千の包囲を支えねばならなくなりました。
包囲軍の中には藤孝の弟子達もおり、あまり戦意は高くなかったようで、圧倒的戦力差ではありながらも二ヶ月もの期間を耐えましたが、ものには限度というものがあります。もはや陥落は避け得ない中、藤孝は降伏の勧告を拒絶して討ち死にする覚悟でいました。
しかし、ここで勅使が参ります。天皇自らが、藤孝が受けた古今伝授が失われることを恐れて、講和を命じました。これには藤孝も従い、城を明け渡しました。
この講和が九月十三日のこと。関ヶ原の合戦は二日後のことであり、これら包囲軍一万五千は参戦できませんでした。藤孝の懸命の粘りは、関ヶ原に対して大きな影響を与えたことでしょう。
晩年
三条西実条ら三名に古今伝授を行い、秘技を返納しました。これは、藤孝が伝授されるときの約束でした。
細川氏は関ヶ原での戦功を認められ、小倉に四十万石を与えられます。藤孝は京都で過ごし、1610年に没するまで悠々自適だったと言います。もうやることはやったというところでしょう。











