九州地方で、大国に挟まれながら主家を守り通そうとした忠義の士ではありますが、忠義に篤いということは豊かな人間性を持つことを保証しないようです。
出自
1510年前後に誕生されたと伝わっています。父は甲斐親宣。宗運は号で、諱は親直といいます。
親宣の主君は阿蘇惟豊でしたが、その頃の阿蘇氏は混乱のまっただ中にありました。惟豊の兄惟長は菊池武経を名乗り、菊池氏を乗っ取って肥後守護職の座につきました。しかし、守護職といっても大友氏の傀儡に過ぎず、惟長の失政もあって家臣達とも反目しました。身の危険を感じてか、惟長は地元へと戻りました。しかしそこはすでに惟豊が統治している状態でしたので、争いが起きてしまいます。
初めは惟豊が勝ち、惟長を薩摩に追い出しましたが、島津氏の支援を得た惟長によって、今度は惟豊が追い払われてしまいます。
その後、惟長を破って惟豊に阿蘇氏本領を取り返させたのが親宣です。こうして甲斐氏は阿蘇氏の筆頭重臣として権勢を振るい、不安定な状況にある阿蘇氏を支えました。
宗運もまた名将であり、島津氏に「宗運のいる限り、肥後に侵攻できぬ」といわれるほどに阿蘇氏を守り続けました。
苛烈な粛正
宗運は軍略にも謀略にも長け、軍政の両面で主君阿蘇惟長を補佐しましたが、中でも苛烈なのは離反者に対する粛正でした。
伊東氏に内通した者の一族郎党を皆殺しにし、助命したのは誓紙を書いた奥方一人。この態度は親族に対しても変わることがなく、やはり伊東氏と結ぼうとした次男、三男、四男も手加減せずに粛正しました。この所行に不満を持ったのが嫡男親秀で、宗運の暗殺を計画しました。しかし発覚してこれもまた討たれそうになりました。甲斐氏の世継ぎということもあって家臣の取りなしのおかげで一命を取り留めましたが、これは後の事件に繋がったともいいます。
大勢力の狭間で
甲斐氏が仕える阿蘇氏の立場は非常に不安定で、大友、龍造寺、島津と大勢力に囲まれていました。阿蘇氏家臣団も一枚岩ではなく、大友派もいれば龍造寺派も島津派もいます。宗運は大友派であり、龍造寺派や島津派の連合軍を破ったりもしています。
このような不安定な政治的状況のため、離反者に対する見せしめを重んじなければならなかったのかもしれません。
敗北前夜
島津氏による肥後侵攻に対しては、阿蘇氏と相良氏の同盟もあって、長きにわたって防いできました。島津氏の拡張は他の九州勢力にとっても脅威であるため、大友氏も後ろ盾となってくれていました。しかしその大友氏が島津氏との合戦で大敗を喫したことで、勢力バランスが崩れてしまいます。
相良氏は島津氏の攻撃を支えきれなくなり、降伏。当主であった相良義陽には、阿蘇氏との戦いが命ぜられます。当然阿蘇氏の家臣である甲斐氏とも戦うことになるわけですが、義陽と宗運は盟友であり、不戦の誓いをかわしていました。
甲斐氏の残した資料では、ここに謀略家としての宗運の姿が覗えます。
宗運と義陽は共謀して、島津家当主の島津義久を戦場に引きずり出し、共に攻撃して討ち取る算段だったそうです。ところが義久は出陣せず、義陽のみが軍を出すことになりました。これでは話が違うと、宗運は義陽の裏切りを疑い、霧の中奇襲をかけて討ち取ったと、そのように伝わっています。
宗運の死と滅亡
宗運の没年は1583年とされています。病死となっていますが、一説には毒殺ともいわれています。一応助命は許された親秀でしたが、いつか宗運が親秀を殺すだろうと恐れた親秀の妻が、娘を使って毒殺したというのです。この妻の父もまた、謀反の疑いで粛清を受けておりますので、強い恐れを抱いても不思議はありません。
宗運の戦略によれば、城を堅く守って天下が定まるまで待つのがよいとなっておりましたが、後を継いだ親秀は一時攻勢に出たものの、たちまち反撃を受けて追い込まれ、二年で阿蘇氏は滅亡しました。