相良義陽

九州の名門相良家の家門と友情の両方を守るため、あえて死地に身を置いて果てたとされる人物です。

誕生から家督相続まで

1544年、父相良晴広の下で生まれました。同じ日に弟が生まれていましたが、後の混乱を避けるため、世継ぎは義陽であることを明らかにしておきました。そのおかげもあってか、1555年に晴広が亡くなったことによる当主交代の時、お家騒動などは起きずにすみました。
義陽も多くの名を持つ人物で、元服したときの名は頼房でした。後に、義頼と名を変え、最後に義陽を名乗りました。一番長く使った名前は義頼ですが、ここでは一番有名な名前を使います。

大友氏と島津氏の合間で

肥後という国は九州の北東部に勢力を張る大友氏と、薩摩で力を持つことになる島津氏の間に位置しています。肥後には肥後一国を掌握するほどの大勢力はなく、肥後で地盤を固めるためには、外の国との外交がどうしても必要でした。1543年以降、大友氏が肥後守護職を得て肥後の統治に乗り出すと、大友氏に従うようになりました。
一方で南の薩摩はまだ島津氏が台頭していない時期であり、相良氏は領土拡張の野心をそちらに向けました。1556年に薩摩の大口城を謀略によって奪取したときは、島津氏から割譲という形で領地を譲られ、騒動の火種になっていません。
相良氏と島津氏が争うようになるのはそれから十年後、相良氏が伊東氏と結んで島津氏を攻撃してからです。その直前までは、島津氏と結んで伊東氏と戦ったりもしていました。

安定しない国情

義陽の統治下では、いくつもの反乱が起きています。
幼い義陽が当主について以来後見人として実権を握ってきた、相良氏一族の上村頼興が亡くなると、その子達が主家を倒して領土を分割する計画を立てました。これは数ヶ月の戦いで鎮め、後に生き残りの首謀者達を謀殺しています。
さらには東長兄と丸目頼美との不和が家中を割る大騒動となり、敗れた頼美らは落ち延びて、伊東氏に仕えました。この戦いの発端は情けないもので、長兄の家臣達が頼美の侍女をものにするべく、主君と頼美を争わせたことに発しています。
結局最後には策謀は露見し、首謀者達は市中引き回しの上に処刑されました。
なお、同日生まれの弟、頼貞は素行不良ではあったものの、反乱までは至っていませんでした。
頼貞が兵を挙げるのは、義陽が没した後のことになります。

一方で相良氏と幕府との関係は良好で、多額の献金を行い、修理太夫の官位と共に将軍義輝の一字を拝領して、義頼を名乗るようになります。
織田信長は、毛利氏を打倒するために島津や大友など、九州の勢力の停戦を求めました。このとき関白近衛前久は相良氏の居城にも訪れており、義陽は感動を以て前久に臣下の礼を取ったといいます。

降伏と死

1564年から、島津氏は旧領大口城の奪還を開始します。相良氏の抵抗も激しく、容易く敗走を重ねたというのとはほど遠いのですが、すでに島津氏の力には及ばず、次第に追い詰められていきます。
1578年に大友氏が島津氏に大敗を喫すと、同じ肥後国で、相良氏の同盟者でもある阿蘇氏が島津氏の攻撃を受けるようになりました。
肥後の相良氏領土も攻撃を受け、1581年、ついには嫡男を人質に差し出して降伏することになります。
降伏した義陽に島津義久の出した命令は、阿蘇氏への攻撃でした。
義陽は阿蘇氏重臣の甲斐宗運とは親友であり、相互不可侵の誓紙を交わした仲でした。
相良氏が残した文書によれば、義陽は「義久に背けば家門が滅ぶ。義久に従えば、信義に背く。ならばもはや道はない」と、阿蘇氏の領地に兵を率いて侵攻したものの、守るに適さない響野原に布陣し、阿蘇軍の攻撃を待ちました。
そして床机に腰掛けたまま敵兵に討たれたといいます。
家と友情の両方を守るための姿に、島津義弘も宗運も涙したそうです。
享年三十八。家督は、島津氏から返されていた嫡男忠房が継ぎました。

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