京極高清

人生の大半をお家騒動で過ごしました。自身の騒動が終わったかと思えば、今度は息子たちでも争うことになりました。
度重なる騒乱で名門京極氏も衰え、没落していきます。

京極騒乱

1460年に誕生しました。父は定かではなく、京極持清の四男とも、持清の嫡男勝秀の子とも伝えられています。
勝秀の子とされることが多く、継承権の争いもその説に従った方が理解がしやすいため、ここでも勝秀の子として進めます。
高清は長男ではありましたが、庶子でした。弟の孫童子丸のほうが嫡子になっていたのですが、持清は高清の方をかわいがっていました。1470年に持清が没したとき、すでに勝秀も病死していましたので、高清を後継者とするか、孫童子丸を後継者とするかでお家騒動が起きます。
この、三十五年にわたって続いた一連の継承戦争が、京極騒乱と呼ばれています。

まさに一進一退

京極争乱が始まってすぐに、孫童子丸は亡くなりました。しかしそれでは終わらず、孫童子丸の後見人であった京極政経(持清の三男)との戦いが続きます。
一度政経を破って越前へ追い出した隙に、高清が家督を継ぎ、幕府からも出雲・隠岐・飛騨の守護職に任じられました。しかし程なく高清の後見であった京極政光(持清の次男)が病没し、幕府は高清に与えた守護職を取り上げ、政経に与えました。
上洛の軍を率いた政経は高清を破って大勝を収めたものの、翌月には美濃、尾張からの援軍を得た高清らが逆襲を果たします。
両者の力関係は大きく差が開かず、美濃に後ろ盾を得た高清と、近江国人衆の協力を得る政経が互いに時に勝って敵を追放し、時に負けて落ち延びてを繰り返しました。
泥沼の戦いがようやく終わったのは1505年。政経は近江での戦いに敗れて出雲にあり、政経の子であった材宗との和睦が成立したことで、長きにわたるお家騒動も決着を見ました。

揺れ動いた近江守護職

持清の代では、京極氏は四カ国の守護に任じられていました。ところが高清の晩年では、北近江という、近江の半分しか残らなかったのです。しかもその半分も守護とは名ばかりで、権力はありませんでした。
出雲・隠岐は尼子氏が、飛騨は三木氏が奪い取っていましたが、京極氏の本領に近かった近江は何度も守護職が代わりました。
京極争乱が始まってすぐに六角氏に与えられ、政経が高清に大勝したときには政経に与えられ、応仁の乱が終わるとまた六角氏に戻りました。
一時高清を近江から追い出したときにはまた政経が任じられるのですが、将軍と不仲になった政経から取り上げられ、高清に与えられました。かと思えば翌年にはそれが逆転するという具合で、この頃の近江守護職は何年に誰が就いていたかが非常に分かりづらい状態です。
それだけに、高清と政経の両者が拮抗していたということなのでしょう。互角の力を持ち合ったお家騒動とは、残酷なものです。

そして再びお家騒動

1523年、やっと一息ついたと思ったら、今度は自分の息子の代でも争いが起きます。
高清は次男の高吉を後継者に指名しました。これに反発した近江の国人衆は長男の高延を支持して挙兵、高清と高吉は尾張へと落ち延びることになりました。
しかし高延の支配も安定せず、高延を傀儡化した浅見定則は信望を失って追い出され、浅井亮政が北近江国人衆の盟主として、実質的な支配者となりました。
亮政の統治も不安定で、幾度も落ち延びて復帰するという有様でしたが、1534年に高清一家と亮政の和解が成立します。
もはや名門京極氏の威勢は過去のものとなってはいましたが、ようやく落ち着いた暮らしができるようになりました。
晩年は浅井氏居城の小谷城で余生を送り、1538年、 79歳で没しました。
高吉は浅井氏の傀儡で終わることを嫌い、六角氏を頼って後に浅井長政と戦うことになります。

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