京極高次

家柄や血筋に恵まれ、蛍大名とも呼ばれました。かろうじて家名を繋いでいた京極氏ですが、高次によって大名へと復帰を果たします。

出自

1563年、京極高吉の長男として誕生しました。母は浅井長政の姉になります。
京極氏は名門で、一時は四カ国の守護を任じられるほどでしたが、長く続いたお家騒動で疲弊し、すでに実質的には支配地域を失った状態でした。
高吉は六角氏の支援を受けて浅井氏と戦いますが、完敗を喫しました。その後は足利義昭に仕えましたが、信長と争う段になると出家し、まだ幼少の高次を信長に人質として差し出して隠居しました。
本能寺の変に際しては、高次は明智光秀に与して羽柴秀吉と戦いましたが、光秀が討たれたことで身を隠しました。柴田勝家に匿われていたといいます。

近江の大名へ

祖父高清も父高吉も、近江での実権を取り戻すべく、浅井氏との果てしない戦いを繰り広げました。しかしそれは叶わず、近江は京極氏の手から離れていったのですが、ここへ来て高次に近江が与えられることになります。
高次には竜子という妹がおりました。竜子が秀吉の側室となったことで、竜子の嘆願もあって高次が秀吉と敵対したことが許され、まずは近江に二千五百石を与えられました。数年で所領は倍増され、九州征伐の功により一万石の大名となります。
因縁ある浅井氏からは、長政の娘を正室に迎えました。
高次の加増は続き、1595年には大津城を与えられ六万石に成長しましたが、周囲の目は厳しく、妹や妻のおかげで成り上がった蛍大名と揶揄されました。

関ヶ原

天下分け目の戦いは、高次にとっても転機となりました。高次の居城大津城は、関ヶ原からそれほど離れていません。東西の境界線の間際に位置していました。それだけに身の振り方も難しく、どちらについても敵がすぐ側におり、どちらにもつかないわけにはいかない状況でした。
上杉景勝が兵を挙げると徳川家康は軍を動かしましたが、高次は家康直々に留守中のことを頼まれました。高次は当然それに応じて、弟や家臣を家康に伴わせるまでしています。
しかし、西軍石田三成からも声がかかり、こちらにも人質を差し出して協力を約束します。
どうやら高次の本命は家康だったようで、関ヶ原の合戦の二週間前には西軍と行動を共にして出陣したものの、二日後には船で大津城に戻って籠城戦の準備に入ります。
すぐさま大津城は攻撃を受けましたが、頑強に抵抗。勇猛な家臣が打って出て戦果を挙げるなどして寄せ手を悩ませました。
大砲まで持ち出され、総攻撃を受けて高次も負傷しますが、まだ落城はせず時間を稼ぎました。
一度は拒絶した降伏勧告ですが、九月十五日になってついに受け入れ、開城することになります。高次は出家して高野山へ向かいました。

九月十五日までおよそ一万五千の兵力を引きつけたことが、家康に高く評価されました。関ヶ原の合戦もまた、九月十五日に行われていたのです。天下分け目の戦いから、立花宗茂率いる一万五千を引き離したことは、戦略的に大きな意味を持っていました。
家康は高次を高野山から呼び戻し、若狭一国を与えました。最終的に、高次は九万石の大名になったのです。

関ヶ原に間に合わなかったといえば、徳川秀忠もいます。真田氏に手間取って遅参したことに家康が激怒したとも伝わっています。軍勢が足止めされることの不利をよく知る家康としては、高次の働きがどれほどのものかがよく分かっていたのでしょう。
蛍大名といわれて自身の才覚ではないものに頼って出世したように言われていた高次としては、名誉ある評価だったのではないかと思います。

1609年、四十七歳で亡くなりました。家督は忠高が継ぎ、後に出雲・隠岐二十六万石に転封されています。
この国もまた、かつては京極氏が守護職を務めていた地です。因果は巡る、というところでしょうか。

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