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    Categories: 武将紹介 大友家

大友義鑑

九州三国志の勢力の一つである、大友宗麟の父です。宗麟を嫌った義鑑は三男を後継者に望みましたが、そのために暗殺されることとなりました。

誕生から家督相続まで

1502年、大友義長の子として誕生しました。まだ十三歳の頃に父が隠居したため、大友氏二十代当主となりました。しかし実権は依然として父の下にあり、義鑑は後見の下での統治となりました。
これは義長の代でも同様であり、義長も二十代の頃に父親治から家督を譲られており、終生共同統治を続けました。
ところが義鑑への代替わりから三年で義長が没してしまったため、それから六年間は親治の後見を受けることになりました。

大内氏との戦いと幕府との関係

大友氏にとって、大内氏は長年の敵として立ちはだかっていました。義長が大友氏の家督を継ぐに当たっても大内義興は反対し、親治の従兄弟を擁立して戦いが起きています。大友氏は大内氏との全面対決は望んでおらず、大内氏が奉じた足利義稙を支援して、大友-大内の外交問題の仲裁を受けています。
この方向性は義鑑の代でも維持されており、大内義隆の代になって陶興房の侵攻を受けた際にも、最終的には足利義晴の仲介を受けて和睦を結んでいます。なお、義鑑の義の字は義晴から拝領したもので、それ以前は親安や親敦を名乗っていました。

興房との戦いでは所々では勝利を収めているものの、全体としてみて劣勢を強いられており、和睦を結んだとは言ってもその内容は大友氏にとって不利なものになりました。
この戦いでは少弐氏が滅亡したり、少弐氏の家臣筋であった龍造寺氏が名をはせ、後に九州三国志の雄の一つに成長していきます。

大友重治

義鑑には一人の弟がいました。障害となる大きな勢力のいない肥後国を掌握するべく、お家騒動で疲弊した名門菊池氏の乗っ取りを謀りました。そのために送り込んだのが重治です。重治は菊池氏の家督を継いで菊池義武を名乗ることになります。
当初は兄に従っていた義武ですが、大内氏が大友領に攻め込んだ頃になって、独立の動きを見せ始めます。大内氏や相良氏と同盟を結び、背後を脅かしました。大内氏との戦いで手いっぱいの大友軍は義武を討伐する余裕もありませんでしたが、ようやく和睦が成立すると、もはや優勢は揺ぎ無く、義武は相良氏を頼って落ち延びるほかはありませんでした。
菊池氏の家柄を利用した肥後の統治には見切りをつけた義鑑は、幕府から正式に肥後守護職を任じられて直接統治のために兵を送り出して、隈本城を押さえました。

二階崩れの変

こうした中で起きたのが、二階崩れの変と呼ばれる、当主暗殺事件です。
そもそものきっかけは、義鑑が長男の義鎮(宗麟)を嫌っており、三男塩市丸を後継者にしたがったことです。この件には入田近誠という家臣が強く関わっていたとされており、近誠は義鎮の傳役でもありました。しかし義鎮とは不仲だったようで、義鎮の廃嫡のために暗躍しました。
義鎮は嫡男でもあり、習慣的にいえば、世継ぎとしては何の問題もありませんでした。そのため、義鎮を後継者にすべきと考える家臣は多く、義鑑はまずそれらの家臣を暗殺することから始めました。
このような動きが知られれば家臣の方も黙っているはずはなく、それならばこちらから仕掛けるほかはないと、二人の家臣が館を襲撃。塩市丸とその母を殺し、さらに義鑑も斬りつけて重傷を負わせました。この傷がもとで義鑑は二日後に亡くなります。
死の間際に義鎮に対して後事を託したといいます。
1550年二月のことでした。

突然の当主交代に大友家中が混乱すると期待した義武は、この機に乗じて隈本城を奪取して肥後の掌握を目指しますが、義鎮はその時間を与えませんでした。

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