山中幸盛

戦国時代は集団戦の時代であり、個人武勇が戦況を左右することの少ない時代でした。そういう時代にあって類い希なる武勇を誇った豪傑であり、知謀にも優れた名将でした。

出自

山中鹿之助の名で知られている幸盛ですが、出自には不明な点が多く、生まれた地も生まれた年も定まっていません。
1545年後の誕生とされていて、家系は尼子氏の血を引く一門衆であり、山中氏は代々家老を務めたとされています。
幼年から大柄だったようで、何歳か年長に見られるほどでした。
最初に人を討ったのが八歳で、十六歳にして一騎打ちで首級を上げています。

尼子氏の滅亡

1561年、石見銀山の所有権を巡って毛利氏と敵対を続けていた中、尼子晴久が急死しました。
後を継いだ義久は毛利氏との前面衝突を避けるために幕府に調停を求めました。
しかしながらこれを逆手に取った元就により、石見銀山を失陥。
また、石見領の国人衆を見放した形になったため、尼子氏を見限る勢力が相次ぎ、晴久が没した翌年には月山富田城が攻撃を受ける事態となりました。
幸盛の武勇伝はこの頃から始まります。
曰く、二百の兵を従えて殿を務めて吉川元春や小早川隆景の追撃を迎え撃ち、七度撃退した。
月山富田城に対する大規模攻勢を敢行した元春を迎え撃ち、これを撃退。その際、一騎打ちで首級を上げた。
その半年後にも一騎打ちで敵を討ち取り、毛利軍に夜襲をかけて大きな打撃を与えたと。
結局尼子氏の抵抗は激しく、月山富田城が力攻めで落ちることはなく、次第に混乱を深めていった結果として、義久の降伏によって落城することとなりました。
義久はこの後幽閉されて天寿を全うすることになるのですが、幸盛は尼子氏の再興を夢見て生涯戦い抜くことになります。

尼子再興のために

尼子氏の滅亡から二年ほどの空白期間があり、その間のことは不明のようです。
関東で激しく戦い合っている武田・上杉・北条などの軍法を学ぶために訪れたという話もありますし、越前に向かったとも言います。
幸盛の活動が残されているのは、1568年からになります。
晴久が粛正した新宮党の尼子誠久の子は京で僧になっていましたが、その勝久を擁立して尼子氏の再興の機をうかがい、旧臣たちと連絡を取り合って準備を進めました。
翌年、毛利氏が大友氏との戦いのために軍を動かすと、これを好機とみて出雲へ進軍。
幸盛の檄に呼応した勢力が集まり、再興軍は五日で三千の戦力にふくれあがりました。
幸盛はまず新山城を陥落させると、戦線を拡大していきました。各地で戦いが行われている中、平行して月山富田城の攻略に取りかかりました。しかし力攻めでは落とせなかったため、包囲戦に移行しました。
途中で来援した毛利軍を撃退し、十を越える城を落とし、戦力も六千を数えました。再興軍は出雲国内にとどまらず、勢力は五カ国に及んで各地で戦っていたようです。
しかし、大友氏との戦いをあきらめ、九州の軍を引き払った毛利軍主力が到着すると形勢は悪化。再興軍が会戦で敗北したことで月山富田城の包囲も解放されてしまいました。その後も幸盛は毛利軍に大きな打撃を与え続けましたが、1571年、ついに捕らえられて幽閉されることになりました。

しかし、見張りを欺いて脱出した幸盛は、再び二年の潜伏期間をおいて挙兵。しかしこの戦いも三年間奮戦したものの失敗。織田信長を頼ることになります。

最期

信長に謁見した幸盛は大変気に入られたようで、名馬を贈られています。
明智光秀に従って波多野氏と戦ったときには、殿を務めて敵に打撃を与え、織田信忠の下で松永久秀と戦ったときには、敵将を一騎打ちで討ち取り、三千の宇喜多軍に八百で夜襲をかけた時は敵将を屠るなど、織田家にあっても武勇伝に事欠かない働きを見せました。
しかし大軍を率いた吉川・小早川の軍に城を包囲され、隣接の友軍であった羽柴秀吉は三木城の攻略を厳命されて救援に来られないという孤立状況になり、籠城の末降伏することになりました。

旗印であった勝久は切腹。幸盛は人質として移送されることになっていましたが、途中で刺客に討たれました。
没年は1578年。三十代だったようです。
首供養を二度行ったと言われています。首供養は三十三の首級を得るごとに行うものとされていますので、少なくとも六十六人を討ったことになります。

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