尼子晴久

中国地方の雄と言えば毛利元就。毛利氏に滅ぼされることになる尼子氏はどうしても一段劣る存在と見られがちですが、晴久の存命中は元就も手を焼いていました。
誕生から家督相続まで
1514年、尼子政久の次男として誕生しました。父政久は優れた武将と期待されていましたが、若くして戦死してしまったため、当時の尼子氏当主経久は晴久を後継者に指名しました。
晴久は最初、詮久と名乗りましたが、後年に将軍足利義晴の一字を頂いて晴久と改めることになります。
晴久が二十歳になるよりも少し前、経久の三男塩冶興久が反乱を起こした際に兵を率いて自害に追い込んでいます。
1537年、経久から家督を譲られて当主となりました。
ただでは転ばない
当主となった晴久は、早速大内氏から石見銀山を奪うという戦果を上げます。勢いに乗る尼子氏には多くの国人衆も味方につき、今度は尼子氏から離反した経歴を持つ毛利元就の居城に攻め込みました。
この遠征には経久は反対したとも言いますが、結果的に元就の救援に駆けつけた陶晴賢の軍勢に敗北を喫し、国人衆の離反を招きました。
さらに今度は大内軍が大軍を率いて晴久の居城、月山富田城まで攻めてきます。
防衛戦は一年以上も続きましたが、大内軍は次第に疲弊し、一度は離れた国人衆たちが再び傘下に戻ってきたことで形勢は逆転。
元就も九死に一生を得るほどの反撃を行い、勝利を収めました。
集権と親族殺し
月山富田城での戦いの後、論功行賞がありました。
ここで、興久の子の清久が処分されました。どうやら、大内方に寝返ったようです。
また、興久の乱の際にも荷担した多賀・三沢氏などが追放されています。
経久は有力家門との縁組みを積極的に推し進めており、尼子氏の一門の権力は強力だったのですが、それだけに親族間で力が分散していたとも言えます。
とくに力が強かったのは尼子国久で、国久は経久の次男でした。
弟である興久の乱の後、その所領を受け継いだこともあって、尼子氏の中でも強大な権力を有していました。
国久自身も勇猛な武人であったこともありその影響力は無視できず、戦いとなれば鬼神のごときとも称されました。
しかし横柄な振る舞いも目立ったといい、晴久とも意見が合わなかったようです。
それでも晴久の正室が国久の娘だったことで、血の流れることにはならなかったのですが、この娘がなくなったことでたがが外れ、晴久は国久ら新宮党を粛正しました。
尼子氏の軍事力を支えていたという新宮党の謀殺は、元就による工作だったとも言われていますが、晴久は一貫して尼子氏の権力を集中させる手を講じていますので、後世の創作とも考えられます。
石見銀山を巡る戦い
尼子氏と大内氏はともに中国地方の有力大名であり、両雄並び立たずという調子で激しく交戦を繰り返していました。
しかし、その大内氏が晴賢の謀反によって没落したことで、時の将軍足利義輝より出雲を初めとした八カ国の守護に任じられました。
尼子氏と大内氏、毛利氏の間では石見銀山が係争地となりました。
この銀山は経久の代から何度も所有権が移るような、取り合いの対象になっていました。
石見銀山の所有権は、山吹城を押さえた側が持ちます。
山吹城は天険の要塞で、力攻めで落とせるようなものではありませんでした。
そのため、ここを落とすには兵糧攻めをすることになるのですが、補給線を確保するために必要だったのが忍原です。
1556年とも58年とも伝わっているのが、尼子と毛利による忍原崩れの合戦です。
二万五千の尼子軍と七千の毛利軍。防衛に適した地点で尼子軍を迎え撃った毛利軍ですが、挟撃を受けた毛利軍が敗北。
石見銀山は尼子氏の勢力下におかれました。
しかし重要拠点をそのままにしておくわけにはいかず、元就は奪回のための兵を差し向けますが、ことごとく撃退されついに晴久存命中には取り返すことは叶いませんでした。
晴久は1561年、四十七歳で急死しました。国久など、有力な親族衆もいない状態での権力移行で、世継ぎの義久は苦境に立たされることになります。











