尼子経久

中国地方の三大謀将の一人とされ、尼子氏の勢力を拡大した立役者です。その後の中国地方の歴史に、大きな影響を与えました。

誕生から家督相続まで

1458年、尼子清定の子として誕生しました。出雲の守護職は京極政経であり、尼子氏はその守護代でした。経久の十代半ばは、政経の下で京で過ごしました。経久の経は、政経から一字拝領したものです。
二十歳になると出雲に戻り、家督を継いで当主となりました。

出雲掌握まで

家督を継いだ経久は、主家である京極氏と事を構えることになります。
尼子氏はかつて税を免除されたことがあったのですが、それをそのまま継続していました。
そこで幕府は出雲守護職であった政経に、「出雲からの税を納めさせるように」と命じました。
ところが経久はその要求を無視し、京極氏の寺社領を横領して、対立を明確にしました。
経久の方では出雲の国人衆を味方につければ勝てるという算段だったようですが、その国人衆が京極氏に味方してしまったため、経久の方が降参して守護代を降りることになります。
ここには謀将らしい逸話も残されておりますが、とても派手な謀であるため、事実関係には疑わしさもあります。
月山富田城を追われた経久は野に下り、再起の機会をうかがっていました。
あるとき旧臣の山中某と協力して演芸団に紛れ込み、月山富田城に入城しました。
そして手勢数十名を率いて城に切り込み、城主であり、あらたに守護代に任じられていた塩冶掃部助を討ち取って城を取り返したというのです。
後の尼子氏の忠臣として有名な山中幸盛(鹿之介)がこの山中某の血筋の者かは定かではありませんが、もしこの出来事が事実ならば縁者かもしれません。山中氏の系図は不明な点が多いため、はっきりとは言えませんが。
いずれにせよ経久は一時的に守護代としての権力を失ってはいたようなのですが、1500年には守護代に復帰し、政経との関係も修復されています。
1508年には政経から後継者の吉童子丸を託されたのですが、その後の吉童子丸は消息不明となっています。
経久は出雲国内を掌握するために様々な戦いを起こすのですが、途中、嫡男を失うという不幸がありました。
政経から一字を頂いて名付けられたという政久は文武に秀で、経久の後継者として期待を受けていましたが、矢を受けて絶命しました。
このことが、後に尼子氏の混乱につながっていきます。

毛利氏の離反と内乱

経久の活躍はめざましく、最大版図は十一カ国にまたがったと言われています。完全に掌握した地方ばかりではないにしても、その後三好長慶の力が及んだという十カ国以上に肩を並べる大勢力です。
しかし後に傷跡を残す二つの事件がありました。
一つは、一時期尼子氏に従っていた毛利元就が、大内氏に鞍替えしたこと。これは、経久が毛利氏の後継者問題に介入して、元就を討たせようとしたことに端を発しています。
大内氏の軍権を預かっていた陶興房としても、大内軍に大打撃を与えるほどの知将であった元就を味方につけたいと考えていましたので、これ以降毛利氏は尼子氏の仇敵となり、ついには滅ぼすに至ります。
もう一つは、経久の三男、塩冶興久の反乱です。加増の希望が受け入れられなかったためとも言われていますが、この反乱は尼子氏を二分する騒動となり、最終的には経久が勝利して終結しました。
この騒動で尼子氏の統治のほころびが明らかとなり、統制の強化のために次代当主の晴久が奔走することになります。
経久から晴久への家督継承は1537年に行われています。没年は1541年。吉田郡山城での敗北を、経久はどう受け取ったでしょうか。
物に頓着がなかったという経久。経久が所有する物を褒めると、褒めた者にみんな上げてしまうと言われています。
そのため、うかつに褒められないのですが、松の木なら大丈夫だろうと思って褒めたら、掘り返そうとしたとか。
さすがに皆で制止したものの、薪にして渡してしまったと言います。

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