陶興房

陶晴賢の父で、大内義興を支えて大内家の隆盛を実現しました。東は京から西は九州まで転戦して戦い続けた猛将にして、文化にも造詣が深い人物でした。

出自

1475年、陶弘護の三男として誕生しました。陶氏は大内氏の血族で、代々重要な地位を任されていましたが、一騒動を起こしてしまいました。
1482年に弘護が暗殺されたことで、長兄の陶武護が家督を継いだのですが、次兄の明興と争い、最後には二人とも命を落とすことになりました。そして興房が当主となったわけですが、この騒動で、家中における陶氏の力は減退したと見られています。

上洛

1507年、大内氏は前将軍足利義稙を奉って上洛を開始しました。この戦いは義稙・細川高国と足利義澄・細川澄元の権力闘争でした。この戦いでは義稙方が勝利し、義興は管領代に任じられ、細川氏と共に幕政を担う立場となりました。
しかし義澄派との戦いは続き、苦戦を強いられました。
いくつかの戦いに敗北して、やむなく京から逃れた後、再び大規模な軍を集めて挑んだのが船岡山の合戦です。
この戦いで勝利したことで義稙の地位はひとまず安定しました。
この一連の戦いにも興房は参戦していたようで、特に船岡山の戦いでは面白い逸話が残されています。
結局のところ、この戦いでは大内軍が先鋒を務めて夜襲をかけて大勝を収めているのですが、夜襲は尼子経久の提案だったと言われています。
戦いの前経久から「夜襲をかけてみてはどうか」と打診された興房は、「大内軍は夜襲が苦手故」と拒絶しています。
しかしどうやら当主義興自ら先陣に立つという徹底ぶりだったようで、これが敵を騙すにはまず味方から、ということなのか、あるいはまた別な意図があったのかは定かではありませんが、どうもこの「大内軍は夜襲が苦手」というのは、嘘でもないのかもしれません。
国元で不穏な動きが増えてきたことで、1518年に大内勢は帰国するのですが、今度は尼子氏との戦いに突入することになりました。
そのとき、実際に毛利元就の夜襲を受けて敗走してたりします。
このときの元就の見事な働きに感心した興房が働きかけ、毛利氏を尼子氏から寝返らせることに成功しています。

大内義隆時代

1528年に義興が病死し、家督を子の義隆が継ぎました。先代を支えた大黒柱である興房は信頼され、軍権を預けられて九州で少弐氏や大友氏と戦いました。
九州の三大勢力と言えば島津・大友・龍造寺を思い浮かべる人が多いと思います。少弐氏は龍造寺氏の主家ですので、興房は三大勢力のうちの二つを同時に相手取ったことになります。
たびたび苦戦もしていますし、一度は九州から撤退もしていますが、最終的には少弐氏を滅亡させ、大友氏に対しても大内側に有利な条件での講和を結ばせていますので、多大な戦果を挙げたと言えるでしょう。
こうして大内氏が最盛期を築くのに尽力した興房ですが、1539年に亡くなりました。
家督は隆房(晴賢)が継ぎましたが、これは長男の興昌がすでに亡くなっていたからです。
一説によれば、興昌と義隆が不仲であったため、興房が殺害したとも言われています。また、隆房についても、その性格が将来災いするのでは亡いかと危惧していたとも伝えられており、父の目から見ると、あまり息子たちはよくできていなかったのかもしれません。
とはいえ、隆房は「西国無双の侍大将」と呼ばれるほどの武人ではありましたので、才能は親譲りだったのかもしれません。
ただ、和歌や連歌にも教養があったという興房ですが、それが隆房にも受け継がれた様子はありません。
むしろ、京かぶれの義隆に愛想を尽かしたくらいですから、興房の教養はむしろ義隆の方に受け継がれていったのかもしれませんね。

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