荒木村重

謀反や下克上など、戦国時代らしさを感じさせる数々の逸話に満ちた人物ですが、人を人とも思わぬ残虐な人物だったかというとそれも難しい、複雑な人間性を見せた武将です。
出自
1535年、荒木義村の下で生まれました。義村の主君は池田城主、池田信正でした。池田氏は幕府の趨勢にも強い影響を与えており、信正の行動が細川晴元、細川氏綱、三好長慶に影響を与え、結果的に晴元の家臣であった長慶が氏綱方に寝返ることとなり、その後の晴元の没落へとつながっていきます。
1548年に信正が切腹させられると、池田氏は子の長正が次ぐことになり、長慶と争って敗れた後は三好氏に従属しました。ここで敵として主君筋として長慶に触れたことが村重にも影響を与えたか与えなかったかは定かではありませんが、村重と長慶にはいくらかの共通点を見いだせます。
村重は主君長正の娘を娶っています。
村重の謀反歴
村重の最初の裏切りは、1570年のことです。この時期はすでに織田信長が上洛を果たし、上洛の命令に従わない朝倉氏と開戦し、浅井氏の離反によって窮地を脱した頃です。
当時の村重の主君は池田勝正。長正の実子ではなかったと言われていますが、優れた人物だったとのことで、家督を相続しました。勝正は上洛する信長と交戦したものの、圧倒的な戦力差に破れて恭順しました。しかしかえって勝正はその才を披露したことになり、信長に認められて所領を安堵された上、加増まで受けたと言います。さらには摂津守護にも任じられ、非常に重要な役割を担い、数々の戦功も上げています。
当然、勝正は信長の覚えもよろしかったわけですが、村重はこの勝正を追放して、三好三人衆に寝返ってしまいます。これによって摂津が信長の支配から抜け出たため、三人衆の摂津への侵入を許すこととなります。
この際、村重は新しい主君に仕えました。池田知正です。知正は長正の子であったため、池田氏の家督相続権は十分にありました。
ところが今度は、その知正とも戦うことになります。
1573年、信長と将軍足利義昭との関係悪化が明らかとなり、互いに戦争を始める段になると、知正は義昭方につきました。一方村重は信長に味方しましたので、村重は知正を追放し、今度は逆に知正が村重の家臣となりました。
そして最後が有名な、説得に来た黒田孝高(官兵衛)を牢獄に閉じ込めた謀反です。
摂津という非常に重要な地域で三十七万石を任されるほど信を置かれていた村重でしたので、信長もすぐには謀反を信じられず、確認の使者を送りました。
しかし村重の翻意は本物で、一年にわたって有岡城で抵抗を続けました。村重の勢力圏は石山本願寺ともほど近く、毛利水軍の支援も受けられる地勢でしたが、第二次木津川合戦で織田水軍が優勢を示して以降は補給も連携もままならず、守勢におかれました。
挽回のためとも、ただの逃走とも言われますが、ついに村重は有岡城を抜け出して尼崎城へ移ります。有岡城を任されたのは、荒木久左衛門と伝わりますが、これはどうやら池田知正のことのようです。元主君の、実質副将であった知正に後事を託して逆転の可能性にかけたのか、ただ丸投げして逃げ出したのかで評価は分かれるところですが、いずれにせよ程なくして知正は降伏しました。その際、城を明け渡して降伏するように村重を説得するという条件をつけられたのですが、説得に失敗した知正は出奔。
こうして、村重と知正の縁者数百名が惨殺されることとなります。
晩年
尼崎城のあと、村重は毛利氏に身を寄せました。
そのうちに本能寺の変が起こり、天下の趨勢が羽柴秀吉に傾くと、今度は村重は堺で茶人として名を残すこととなります。
裏切りが趣味なのかと思われている幾人かの人物。三好長慶や、松永久秀なども文化に造詣が深かったと言います。村重もまた、元の主君を追放したり、権力を簒奪したりはしながらも、決して殺害まではしなかったという点で、長慶と似ている部分があります。孝高にしても、殺そうと思えば殺せながらも、手にはかけていません。
裏切りをためらわない人物にも、ちょっと甘い部分があるというのは、意外と一般的な人間性だったりするのでしょうか。
本能寺から四年、道薫と号していた村重は、五十二才で亡くなりました。
- 別所長治 辞世の句です。
- 織田信秀
- 織田信行
- 織田信忠
- 織田信孝 辞世の句です。
- 織田信雄
- 蒲生氏郷 辞世の句です。
- 荒木村重
- 平手政秀
- 池田恒興
- 村井貞勝
- 森蘭丸
- 森長可
- 織田有楽斎
- 佐々成政 辞世の句です。
- 佐久間盛政 辞世の句です。
- 佐久間信盛
- 可児才蔵
- 明智光秀 辞世の句です。
- 九鬼嘉隆
- 前田利家
- 明智光秀
- 丹羽長秀
- 滝川一益
- 柴田勝家 辞世の句です。











