証如

織田信長と戦いを繰り広げた、本願寺の顕如の父です。朝廷や幕府との関わりや、近隣勢力との外交などを見る限り、一つの宗教勢力と言うより、実質的な戦国大名であったといわれるのも納得がいきます。

誕生から門主継承まで

1516年、父円如の元で生まれました。当時の門主は祖父の実如でしたが、円如が三十代に入ったばかりで急死してしまったことで、証如が後継者に指名されました。
十歳の時に実如が没したため、第十代の門主につきましたが、まだ幼い証如には祖父の蓮淳が後見人として補佐がつきました。
そして、関白であった九条尚経の猶子となって、幕府や朝廷と本願寺との関係を強化しました。

幕府と本願寺

もともとは普通の宗教勢力だった浄土真宗の本願寺ですが、八代目門主の蓮如の時代に強大な軍事力を手にしました。それは、武器を手にした浄土真宗の信徒たちでした。蓮如による教育を受けた信徒は勢力を増して、領主たちと交戦できるほどの軍勢になりました。
そして事実、当時加賀を治めていた富樫政親を討って加賀一国を統治下においたのです。このとき将軍であった足利義尚は、当然のごとく本願寺討伐の軍を起こそうとしました。それに反対して差し止めたのが、管領であった細川政元です。こういったいきさつもあって、細川氏と本願寺は友好関係が築かれており、共に戦うこともありました。
しかし、そのためにかえって騒乱を抱えることもあり、本願寺内部での勢力を争いを何度か経験することになります。
一度目は実如の時代にあり、証如の時代でも享禄・天文の乱が起きています。
しかし一つ注意が必要なのは、本願寺の門主たちは皆、できればあんまり争いを起こしたくないという気持ちはあったことです。
蓮如にしても、信徒たちの一揆が勢いを増していくことを憂えて、越前を去ってしまいました。実如も加賀の一向宗に対して、一揆を起こさないようにという戒めを発令しています。
証如もまた享禄・天文の乱の後、各地の一向宗に対して乱を起こさぬようにと指示を出しました。
しかしそれでも、やはり多大な軍事力を持つ勢力が、その力を使わずにのんびりできるほど緩い時代ではなかったのです。

山科本願寺の喪失

証如が門主についた頃、本願寺の本拠地は京都の山科本願寺でした。しかしここは、1532年に焼き払われてしまいます。その過程は、まさに戦国時代らしいものでした。
当時の管領細川晴元には三好元長という名臣がいました。晴元を支えた功労者で、細川氏内でも大きな力を持っていました。しかしその力を疎んじた晴元は本願寺に働きかけて、出陣中の元長を背後から襲わせて死に追いやりました。
元長は一向宗とは敵対関係にある法華宗の信徒でありましたので、宗教戦争の一種でもあったようです。
しかし、十万にもふくれあがった一向宗の軍勢は一仕事を終えても収束せず、今度は奈良に押し入って寺で略奪を働くという始末でした。この際、証如は制止命令を出していたようですが、全く聞く耳は持たなかったようです。
ここに至って晴元は一向宗の危険性を認識し、それを討伐することにします。そうして始まったのが山科本願寺合戦であり、三万を越えるという細川・法華宗軍によって本願寺の本拠地は灰になりました。

石山本願寺

証如は新しい本拠地を石山御坊に置きました。こうして石山本願寺が誕生し、息子の顕如の時代には堅城として長い戦いをくぐり抜けることになります。
その後は各地の信徒の統制に力を尽くし、金沢には尾山御坊を築き、活発な活動を続ける加賀の一向宗に対して介入を続けました。
祖父実如の遺言には、「武家と争わないこと」とされていたようです。若気の至りかどうか、禁を犯して武家の権力闘争に首を突っ込んだ結果が本拠地の喪失でした。間違いを繰り返さぬようにという気持ちがあったのではないかと推察されます。顕如には晴元の養女と婚約させています。
1554年、三十九歳で没すると、顕如が門主を次ぎました。

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