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顕如

織田信長が十年にわたって戦い続けた敵は、顕如ただ一人でした。信長の前に立ちふさがった、最強の壁と言えるでしょう。

誕生から門主継承まで

1543年、本願寺の十世門主であった証如の長男として誕生。本願寺は元々仏教の一派でしかありませんでしたが、八世門主の蓮如の時代に信徒たちが軍事力を背景にした活動をはじめました。加賀が一向宗の統治下におかれたのも蓮如の時代です。
証如の時代でも一向宗の力は強く、各地で戦闘の記録が残り、管領細川氏やその権力を簒奪した三好長慶などの関係にも、本願寺との戦いが強く影響を及ぼしています。
1554年に証如が急死すると、第十一世の門主となりました。

信長包囲網

1568年、信長は足利義昭を奉じて上洛しました。畿内を勢力下においていた三好氏は権力争いの真っ最中であり、信長に対抗する力はありませんでした。
義昭を将軍に据え、幕府権力を掌握した信長は、近隣勢力に対して高圧的な命令を出していきます。朝倉氏に対しては上洛を命じ、本願寺に対しては軍資金の提供から始まり、統治への干渉、そして本拠地石山本願寺の明け渡しが要求されました。
信長の宿敵となる顕如ですが、最初から敵対的であったわけではなく、軍資金の提供には快く応じています。一般的に、荒ぶる一向宗の指導者である本願寺門主も荒っぽい性格なのかと思われがちですが、一向宗が武装化したきっかけである蓮如から顕如に至るまで、できるだけ軍事活動を統制しようと努力しています。
このときの顕如も、自分から信長に突っかかっていったわけではありませんでした。
1570年、池田氏に仕えていた荒木村重が三好氏に寝返ったことで、三好氏が畿内での活動をはじめました。
それに続く形で本願寺も織田氏との戦いに突入し、顕如はこのとき各地に檄文を発して総力戦の様相を呈します。
この第一次信長包囲網は、本願寺や浅井・朝倉氏が信長と和睦を結んだことで年内に終結しますが、翌年にはさらに勢いを増した、第二次信長包囲網が形成されます。
最終的に1580年に顕如が石山本願寺から退去するまで続く戦いでしたが、その間に被った織田氏の打撃は非常に大きなものでした。
伊勢で蜂起した一向宗は信長の弟を自害に追い込みます。さらに鎮圧に向かった織田の軍勢を二度までも追い返しました。
一度目は柴田勝家が負傷し、美濃三人衆の一人であった氏家卜全が討ち死にしています。
二度目も完全な鎮圧には至らず、退却時に林道政を失いました。
三度目で伊勢の一向宗は壊滅しますが、信長の一族が何人も討ち取られるなどの激戦となっています。
越前を支配していた一向宗との戦いも激戦となり、参戦武将もそうそうたる顔ぶれでした。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、前田利家と、一方面を率いている人物が一堂に会したことからも、信長の本気度が分かるというものです。
伊勢、越前という二つの大きな一揆軍が鎮圧されたことで、残るは石山本願寺となりましたが、ここがまた頑強で、1576年から本格的な戦いが始まりましたが、それから四年にわたって持ちこたえました。最後には劣勢を悟った顕如が、朝廷を介して信長との和睦を望み、本拠地を明け渡すことで決着を迎えます。
この決着を不服とした顕如の子、教如が独断で交戦を続けますが、これによって教如は廃嫡され、弟の准如が後継者と定められました。

その後

本能寺の変の後、実権を秀吉が握ると、顕如と秀吉は友好的な関係を結びました。多少の不自由な制約はあったにせよ新しい寺を建立し、九州征伐にも同行して九州の浄土真宗勢力に働きかけています。
秀吉の勘気を被って一族に自害を命じるなど、もはや往年の力はなく、豊臣氏に従う立場ではありましたが、京都に領地を与えられて本願寺を再興することができています。
1592年、五十歳で亡くなりました。

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