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朝倉宗滴

一人英雄がいるだけで一時代が乗り切れることを示してくれる名将です。受ける印象は、長野業正に近いものがあります。

出自

1477年、戦国時代のかなり初期に誕生しました。父は朝倉氏七代当主、孝景です。孝景の時代に応仁の乱が起き、朝倉氏は越前を平定して守護職に就いています。孝景は非常に軍才にあふれ、名将として名をはせており、宗滴はその父の才を受け継いだものと思われます。
ちなみに宗滴は法名で、諱は教景といいます。

軍司令官として

宗滴の活躍が見られるのは、1503年からです。一族の朝倉景豊が謀反を画策した際、宗滴にも協力が求められたそうで、それを当主に密告して内乱を未然に防ぎました。そもそもはこの謀反に宗滴も荷担していたという話もあります。

この事件で金ケ崎城主となった宗滴は朝倉軍の指揮権を任されました。これ以降、長きにわたって宗滴は一向宗と戦い続けます。一向宗は加賀を治め、膨大な信徒を兵力として運用し、近隣にとっての頭痛の種をまいていました。
まずは1506年、越後の長尾氏や、能登の畠山氏との戦いが拡大し、越前でも一向宗の大規模な侵入を受けました
一向宗の戦力は、誇張を含んで三十万といわれ、対する朝倉軍は一万程度。関東での後北条氏が河越城で二十倍以上の戦力を支えたといわれていますが、あれは一応籠城戦です。
川を挟んで対峙したというこの九頭竜川の合戦は野戦になりますので、その衝撃はいかほどだったでしょうか。
その後も宗滴は軍を率いて功をなし、一度は足利義晴を助けて上洛を果たし、三好氏との戦いにも勝利しています。長尾景虎と協調して加賀を攻めたときなどは、一向宗の城を一日で三城も落としたりしています。

当主代理として

朝倉氏最後の当主義景の代はもとより、その先代孝景(宗滴の父孝景のひ孫)、貞景の時代でも宗滴の影響力は強く、事実上の当主であったといわれることがあるほどです。
軍事を滑るだけでなく、外交内政にも影響が及んでいたと見られます。
越後の長尾為景や長尾景虎などとの文書のやりとりがあり、遠く出羽の大宝寺氏から馬を購入した際のやりとりの文書なども残っています。
義景の代に浅井氏が織田氏を裏切って朝倉氏に味方したきっかけとなった、浅井朝倉同盟の基礎は、宗滴が浅井氏と六角氏の仲介をしたことに遡ります。
このように、軍事に限らず、あらゆる部分で宗滴は朝倉氏の運命に関与していました。

晩年

「生涯現役」宗滴はこれを地で行きました。
「百歳になっても、歩ける限りは戦い続ける」そんなことを書き残しています。そして事実七十九歳の、臨終の年まで陣中にあったのです。宗滴は最後まで朝倉軍の総司令官で、全軍を統率していました。
宗滴はまさしく名将で疑いようもない武士でしたが問題もありました。積極的に後継者を育成していなかったようです。
宗滴と同じ水準どころか、それに次ぐくらいの能力の人物もいませんでした。後任を任された朝倉景隆は宗滴の代わりは務まりませんでした。
宗滴亡き後、朝倉氏を代表する名のある人物も登場せず、日の出の勢いの織田氏に飲み込まれる形で、歴史舞台から姿を消すことになります。
1555年、死に瀕した宗滴は「死ぬのはかまわないが、あと三年長生きしたかった。織田信長がどうなるのか見てみたい」と言い残したそうです。当時の信長はまだ桶狭間も経験しておらず、信秀の後を継いだうつけ者としての評判が強く、この段階で興味を持ったのだとすれば、遠く離れていながらにして斉藤道三並みの慧眼であったことになります。

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