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浅井久政

後継者である嫡男長政が有名で、歴史上の人物としての久政はあまり語られることもなく、時には長政と織田信長を争わせるきっかけを作ったとも言われています。

誕生から家督相続まで

1526年、父亮政の長男として誕生しました。しかし、久政の母は側室であったため、後継者争いが起きてしまいました。
亮政には正室の娘の婿養子であった明政がおり、久政が家督を継いだ際に、京極氏の助力を得て反乱を起こしたともいわれています。
亮政は、もともと北近江守護であった京極氏に従う国人領主でしたが、京極氏のお家騒動をきっかけとして権力を握り、北近江の実権を掌握した人物です。
しかし、浅井氏の置かれた状況は厳しく、京極氏とは反目し、京極氏の本家筋に当たる近江守護の六角氏とは敵対関係という非常に難しい情勢でした。
そういう中で幾度も落ち延びながらも勢力を保持し、浅井氏の勢力を築き上げる背景となったのが孫の長政の代にも強い影響力を残したと言われる朝倉氏との協力関係でした。
1542年に父が亡くなり、久政が家督を継ぎました。

六角氏への臣従と反発

久政が家督を継ぎ、京極氏の介入を受けてお家騒動が起きたことで、浅井氏は混乱の収拾を図る必要がありました。
父や子とは違い、武勇には優れなかったという久政のこと、勢力が弱体化している中で六角氏とも争うことは避けたかったのでしょう。
久政は長男を六角氏の家臣の娘と結婚させ、六角義賢の諱をいただいて、賢政(後の長政)と名乗らせました。
六角氏の庇護下に入ることで京極氏との和睦も成立させ、内政に専念する時間を得ました。
その期間に久政は灌漑を効率化する制度を作り上げ、寺社衆を活用するための制度も用意し、小谷城の強化も行いました。
二十三箇条からなる新しい制度も発布するなどして、統治を改善したのもこの頃です。戦間期としての準備期間のようにも思えます。
しかし、当時の浅井氏の家臣団としては六角氏の庇護の下でしか動けないことに、不満が募っていました。
六角氏への臣従を強めたことに反発した赤尾清綱、遠藤直経らが小谷城を占拠。
重臣たちが、久政を追放し隠居に追い込みます。
当主となった賢政は直ちに六角氏と戦い、二倍以上の敵に勝利して、勇名をとどろかせました。
しかし、久政は程なくして小谷城に帰還し、隠居の身ではあっても統治に対しては強い発言力を保持したといわれています。

織田氏との同盟と滅亡

長政は浅井氏の当主として申し分のない働きをしました。美濃への遠征の留守を狙った六角氏の攻撃は、とって返して撃破しましたし、日の出の勢いである織田信長の妹を娶って同盟関係を築きました。
信長と共に将軍を奉じて上洛も成し遂げました。三好氏に阻まれること間違いなしの上洛など、朝倉義景など全くやる気がなかったことを、信長と共にあっというまに実現してしまったのです。
しかし、ここで浅井氏は岐路に立たされました。信長が朝倉氏との開戦を決定。浅井氏との同盟に際して、朝倉氏には攻撃を仕掛けないという約束が交わされていたともいいますが、信長はこれを反故にしたことになります。
長政は迷っていたそうですが、久政は朝倉方に味方すべきと説き、浅井氏の家臣たちもそれに同調しました。

本願寺や武田信玄なども参加した包囲網の形成により、一時は信長とも互角の状況にはなりましたが、武田信玄が没し、朝倉氏も滅ぶに至って小谷城も陥落は目前となりました。
1573年。小谷城に籠もって勇戦した久政たちでありましたが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の攻撃を受けて追い詰められ自害。四十八歳の生涯でした。

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