赤尾清綱

浅井家三代に仕えた人物で、浅井家の隆盛と衰亡のすべてを見届けた武将です。
出自
1514年の生まれと伝わっています。
当時の赤尾氏は北近江の国人で、主君は当地の守護職にあった京極氏でした。
しかし、応仁の乱に端を発したお家騒動によって弱体化した京極氏にかわり、北近江の実権を被官であった浅井亮政が手にします。
亮政は国人衆をとりまとめ、代表として北近江を治めます。その過程で赤尾氏もまた浅井氏に従うこととなり、清綱も亮政の配下として長きにわたって戦い続けることになりました。
主君追放
武勇に優れていたという亮政は、幾度も北近江から逃れ、美濃や越前などに落ち延びては再起したと言われるほどの剛の者です。
そのような武勇にあふれる主君を戴き、自らも歴戦の勇士であった清綱としては、その後を継いだ浅井久政は軟弱のようにも見えたのかもしれません。
久政は内政と外交を重視して六角氏に従属。安全を確保しました。
それが結果的に先代の方針と違うため、清綱や遠藤直経など歴戦の勇士は軍事の才があった嫡男の長政に仕えたいという気持ちがあったかもしれません。
1560年、清綱と直経は謀り、久政が城を留守にした隙に占拠し、竹生島へと追いやってしまいました。そして長政を主君として迎え入れました。長政は直ちに兵を挙げて六角氏と戦い、二倍以上の戦力差を覆して勝利を得ました。
1563年には、斉藤龍興の治める美濃に進軍しましたが、六角の軍勢が北近江に向かってきたことで、兵を引き上げて防衛戦を行いました。
このとき、殿を任された清綱は五百の手勢で戦果を挙げたと伝わっています。
浅井家中における清綱
浅井氏の中で、清綱は非常に高い地位にあったと思われます。
亮政の代から功があり、三代に仕える長老という権威もあって、海赤雨の三将という異名を取っています。これは、海北親綱、雨森清貞と清綱の名字の第一字を並べたものです。浅井氏における三名の立場の高さを端的に表しています。
また、浅井氏の本城小谷城には、赤尾屋敷がありました。
通例、家臣の屋敷は城下にありますが、清綱は城内に屋敷を持っていたことからも、家中での信頼が厚かったことが窺えます。
六角氏との戦いの折、夜襲をかけたことがありました。
夜襲というのは暗がりで行うため統率は難しく、このときは同士討ちになりました。
磯野員昌の兵が今井定清の兵を討ち、これが問題になりました。
清綱が事態の収拾に当たり、最終的には員昌から定清に謝罪文が送られて決着しました。
小谷城の落城
1560年代、浅井氏は織田氏と同盟を結びましたが、織田氏の朝倉攻めによって敵対することになりました。
浅井氏にとっての朝倉氏は、亮政の代からの同盟国であり、浅井家中には織田氏よりも朝倉氏との関係継続を望む声が多く、清綱もその一人でした。
浅井・朝倉連合軍は姉川の合戦で敗北を喫したため、その後は攻勢に出ることはできず、本願寺や武田信玄なども参加した包囲網のおかげで状況を維持しますが、信玄が没し、朝倉氏が滅んだことで浅井氏の命運がつきます。
1573年、木下秀吉を先鋒とした織田の軍勢によって久政が自害。長政や清綱は抵抗を続けたものの、最後は赤尾屋敷にて自害して果てました。
この際、清綱は戦場で捕らえられて斬首されたとも伝わっていますが、子の虎千代は助命されました。信長直々に、清綱の忠義に免じたものといわれています。











