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    Categories: 武将紹介 斎藤家

稲葉一鉄

美濃の有力者で、三人衆と称された筆頭です。斉藤道三とその子義龍、さらには織田信長や豊臣秀吉にも仕え、生涯戦場で武功を上げました。

出自

1515年、稲葉道則の六男として誕生しました。一鉄は、後年に名乗る号で、諱は良通。幼くして出家し、仏門に入りましたが、良通が十歳の時に起きた浅井氏との合戦で、父と兄全員が戦死したため、還俗して家督を相続しました。当時の美濃国主は土岐頼芸でしたが、後に斉藤道三によって頼芸が追放されると、道三に仕えています。

斉藤家臣時代

道三が美濃を掌握してすぐ、子の義龍に家督を譲りました。しかし、二人の関係は険悪で、道三は義龍の廃嫡をもくろみ、弟たちをかわいがりました。ここでお家騒動が起き、決着は長良川の合戦でつけられることとなります。
隠居したとはいえ、実力でのし上がった斉藤道三に味方する兵力は二千七百。対して義龍の下に参じたのは一万七千。良通もまた義龍勢に加わっており、戦いに勝利しています。

義龍は美濃の統治において重臣たちの合議制を採用しましたので、義龍存命中の統治には良通の意向もくみ入れられたものと思います。
ところが義龍は三十五歳で早世してしまい、家督を継いだ幼い龍興は暗愚で、重用した人物も奸臣と評されるような有様で、一国を治められる器量ではありませんでした。これに危機を覚えた竹中重治、安藤守就は稲葉山占拠事件起こしましたが、美濃の結束が一変することはなく、次第に信長の侵入を受けていきました。

1567年、ついに美濃三人衆も信長に内応し、戦いに敗れた龍興は落ち延び、稲葉山城は信長の手に落ち、岐阜城と改められました。

織田家臣時代

次々と戦いに参加し、休まる間もありませんでした。信長が窮地に陥った金ケ崎の戦いや、姉川の合戦にも名を連ね、姉川の合戦では徳川家康に次いで第二位の戦功を認められています。一鉄という名はこの頃に名乗ったようです。
1578年まで毎年何かしらの合戦に参加するという、信長の家臣らしい働きをこなしており、美濃の清水城を与えられています。1579年に隠居し、子の貞通に家督を譲りました。

途中、一鉄の身に危機が迫ったことがありました。
一鉄に逆心ありと、信長に讒言した者がいたのです。信長は一鉄を討つために茶会を催しました。一鉄は虚堂智愚の墨蹟を読み上げ、その意味を説き、自らの無実を語りました。信長はその学識に驚き、知勇兼備の将として称え無実を信じ、茶を点てたといわれています。

その信長も1582年に本能寺で討たれます。
一鉄は美濃の国人衆と協力して斉藤利堯を美濃の国主に据え、独立をはかりました。追放されていた元美濃三人衆の一人であった安藤守就が混乱の隙を突いて挙兵し、美濃の北方城を奪取しました。
ここで一鉄と守就は兵を交え、一鉄が勝利します。
後に美濃は織田信孝の領地とされますが、一鉄は信孝よりも秀吉と親しくし、信孝とは争っています。さらに後、池田恒興に岐阜が与えられたときでも、領土の境界線で争い、おとなしく縦社会の序列に甘んじる姿勢を見せませんでした。

このような次第で、頑固者だったことから、「頑固一徹」という言葉の語源は、稲葉一鉄の一鉄から来ているとする説が有力視されています。

晩年

秀吉に従ってさらに戦場に身を置き、寿命を迎える四年前まで記録が残っています。その最後の記録は、秀吉と家康の小牧の戦いで岩崎山を守備したと伝えられています。
1588年、清水城で亡くなりました。享年七十四。
家督を継いだ貞通は秀吉に仕えて功を上げ、関ヶ原では最終的に東軍に属して五万石を与えられて幕末まで続きました。
また、徳川家光の乳母となった春日の局は、一鉄の孫娘であり、若かりし頃は一鉄と共に清水城で過ごしたとされています。

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