稲葉一鉄、氏家卜全と並び美濃三人衆と呼ばれました。斉藤家、織田家に仕え貢献しましたが、最後は元同僚の稲葉一鉄に討たれました。
出自
1503年(1508年ともいわれています)、安藤守利の子として生まれました。最初の主君は土岐頼芸でしたが、斉藤道三によって追放されると、そのまま道三に仕えました。
しかし道三は子の義龍に家督を譲ったものの、廃嫡を企み、弟たちの方を後継者にしようとしました。そうして家督争いが生じ、長良川の戦いに発展します。
道三に味方したのが二千七百の兵でしかなかったのに対し、義龍には一万七千もの戦力が集まり、戦いは義龍の勝利に終わり、道三は討たれました。
このとき守就たち美濃三人衆も、義龍の陣営にいました。義龍は重臣に信を置き、合議制を取り入れて意見を取り入れて統治を行い、義龍存命中はよく国を治めて、織田信長にも手出しを許しませんでした。
しかし義龍が若くして病没してしまうと、後を継いだ龍興は国を治められる人物ではなかったのです。
稲葉山奪取
暗愚であった龍興は酒色におぼれたといわれ、斉藤飛騨守という人物を側に置きました。しかしこの飛騨守は評判の悪い人物で、そのような人間に左右されている龍興も人望を失うこととなりました。
一方今川義元を破って勢いに乗る信長は美濃への侵入を続けています。危機を覚えた竹中重治は主君を諫め、君主の道を正すべく、たった十六人の兵士で城内から謀反を起こし、龍興を稲葉山城から追い出してしまいました。
このとき守就も二千の兵を率いて城下を制圧すると共に、奸臣斉藤飛騨守を討ち取りました。
稲葉山城の占拠はおよそ半年に及びましたが、最終的に稲葉山城は龍興に返還され、守就はまた斉藤家の家臣として従いました。
謀反を起こしては見たものの、ほかの重臣たちの支持を得られなかったため断念したとも言われています。
稲葉山占拠の翌年には、信長の軍勢は美濃の中部まで入り込んできました。それでも要害で知られる稲葉山城はまだ健在でありましたが、ついに龍興が城を落ち延びる日がやってきます。
美濃三人衆がそろって信長に内応してすぐのことです。
龍興を見限った三人衆は、信長の軍門に降ることを選び、たちまちに龍興は居城を追い出されてしまったのです。
追放まで
信長の家臣になった後の三人衆は多くの戦いに参加し、主立った戦いにはよく名を連ねています。姉川の合戦では三人がそろって配置されたりもしています。
美濃が織田信忠に与えられ、美濃の人材が信忠の下につけられたときでも、守就は信長の直属の武将であり続けました。
柴田勝家の援軍として加賀へ向かい、羽柴秀吉の援軍として播磨へも赴き、荒木村重の包囲戦にも参加するという具合で、歴戦の勇将と呼ぶに不足のない働きを見せた守就でしたが、1580年、突如として武田信玄に内通した疑いをかけられて、追放処分となりました。
同時期には、佐久間信盛、林秀貞らも追放されていますので、なにか政治的な意味合いがあったのかもしれません。しかし信盛、秀貞と比べ織田家中での影響力が強いわけでもない守就を、どうしてそこまでして突然に追放する必要があったのかなど、分かっておりません。
その後
追放された後の守就がどのように過ごしていたのかは定かではありませんが、もう老齢であった守就にもう一度戦士として生きる機会が巡ってきます。追放から二年後に起きた、本能寺の変です。
信長の突然の死によって生じた混乱に乗じ、兵を率いてかつての居城であった北方城を奪取。しかしすでに守就の領地は稲葉一鉄に与えられていたため、ここで両者が激突することになります。
戦いに敗れた守就は、異説もありますが、八十歳で自害して果てたといいます。