片倉景綱

伊達政宗の腹心として知られ、軍略の面で終生政宗を補佐しました。英雄にはよき師が必要という一例でもあります。
景綱の逸話と言えば、政宗の目をえぐり取ったというものがあります。
幼い頃に疱瘡にかかった政宗は片目がつぶれ醜かったそうです。それを気にして内向的だった政宗でしたが、景綱がその目を短刀でえぐり取ったことで、政宗の性格に変化があったと。
少年時代の政宗としては、守り役には景綱、乳母には喜多と、優れた才を持つものたちの指導を受けて育ったわけですから、それはきっと政宗の素質を伸ばすのによい影響があったことでしょう。

出自

1557年、米沢八幡神社の神職であった片倉景重の子として誕生しました。母は鬼庭良直の妻であったことがあり、そのときにもうけた娘が後に政宗の乳母となる喜多です。母はその後景重に嫁ぎ、景綱が誕生しました。
景綱が幼い内に両親が共になくなり、二十歳ほど年の離れた姉であった喜多の下で育てられました。喜多は後に豊臣秀吉に少納言と呼ばれて才を愛されるほどの人物でしたので、喜多の下で育てられた景綱も政宗も、その影響を強く受けたと言います。
喜多が乳母に任じられて後、景綱は伊達輝宗の小姓となり、遠藤基信の推薦によって政宗の守り役を申しつけられました。

武人として

幼少期から政宗と共にあり、戦場でも側近として従軍することが多かった景綱は、数々の大きな戦いに参陣しています。
輝宗が政宗に家督を譲ってすぐの頃、二本松義継が輝宗を人質にするという事件が起きました。そのまま二本松城に戻ろうとする義継を逃がすわけにはいかなかった政宗は、父もろとも鉄砲を発し、義継を討ちました。
さらに二本松城を攻めた政宗でしたが、ここで反伊達連合軍が立ち上がり、三万もの軍勢を相手取ることになります。この戦いは、付近にあった橋の名を取って陣取り橋の合戦と呼ばれています。
七千の軍勢で四倍以上の敵と戦った伊達軍でしたが、善戦はしたものの終始旗色は悪く、重臣鬼庭良直が討ち死にするなど、大きな損害を出しました。
この戦いでは、景綱が政宗の影武者として敵を引きつけたという逸話も残されているほど、政宗の身に危機が迫っていたことを伺わせます。
葦名氏を会津から追放した摺上原の戦いでも景綱の奮戦が勝利に導いています。
さらに秀吉の小田原遠征、関ヶ原などにも参加しています。
大坂の陣の時はもう寿命も尽きようとしている頃であり、病を囲っていましたので、景綱は参加せず、この重長が代わりを務めました。

参謀として

秀吉の小田原遠征に先んじて、奥州では領土争いを停止する命令が出されていました。政宗による葦名氏攻略はこれに反するものであったため、秀吉との一戦は避けられないものとして、戦いの準備をするつもりでいました。しかし景綱はこれを諫め、秀吉に従って小田原攻めに参加するべきだと説得したのです。
このおかげで伊達氏は征伐を免れ、奥州での領土が維持できたのです。ただし、伊達氏の最大領土はおよそ百十万石ほどだったとも言いますが、七十万石程まで減封されました。

晩年

秀吉からは才能を高く評価され、五万石で誘いを受けましたが固辞しました。家康から江戸に屋敷を送られようとしたときも辞退し、政宗への忠義を貫いています。
一国一城令により伊達氏は仙台城と白石城の二つしか城を持てず、その白石城は景綱に与えられ、これは幕末まで片倉氏の居城として残りました。
1615年、五十九歳で病没。
晩年は肥えて体も重く、政宗からは軽い鎧を贈られたと言います。

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