伊達輝宗

独眼竜で知られる伊達政宗の父にして、奥州での伊達家の地位を確たるものにした人物です。息子の知名度に隠れて地味な扱いを受けているのがもったいないところです。

誕生から家督相続まで

1544年、伊達晴宗の次男として誕生しました。兄は岩城家に養子として入っていましたので、輝宗が伊達家の世継ぎとなります。輝宗の輝の一字は時の将軍足利義輝から拝領したものです。晴宗も足利義晴から一字拝領しており、祖父の伊達稙宗も将軍家から諱をいただいているように、伊達家は代々一字拝領を続けてきました。
輝宗が誕生した当時、晴宗と稙宗は政策上の不和から対立しており、近隣諸大名を巻き込んだ天文の乱という内紛の真っ最中でした。数年して、義輝の仲裁によって稙宗が隠居する形で決着がつきましたが、この乱の事後処理が伊達家の課題として残されました。
二十歳になった頃晴宗が隠居し、輝宗が家督を継承しました。同じ頃最上家の姫を娶り、最上義光とは義理の兄弟になっています。

権力の掌握

家督は受け継いだものの晴宗の影響力はまだ大きく、重臣であった中野宗時も大きな権力を保持していました。輝宗は中野宗時とその子に対し謀反の嫌疑をかけ、居城を攻め落として追放しました。この際相馬領へ逃れようとする中野勢を素通ししたことで、小梁川盛宗らを処罰しました。
その後鬼庭良直と、宗時の家臣であった遠藤基信を側近として採用しました。宗時の謀反の知らせは、基信から知らされたものであったようで、以来輝宗は基信を重く用いました。
良直は以後軍事において優れた実績を残し、最後には政宗の窮地において脱出の時間を稼いで討ち死にするという忠義を果たし、基信は後に若き片倉景綱の才覚を見抜いて輝宗に推薦したほか、織田・徳川・北条などの有力大名との外交を担当し、輝宗が非業の死を遂げると殉死しました。
このように、輝宗は優れた人材を見いだして側近くに置きましたが、両名ともその期待に見事に応えてくれました。

世継ぎ問題

輝宗には二人の男子がありました。
一人はご存じ政宗であり、もう一人が通称小次郎です。二人の母は、最上義守の娘義姫なのですが、次男小次郎の方をかわいがったと言われており、伊達家臣でも世継ぎに小次郎を推すものもいました。
そんな中、1584年、輝宗は政宗に家督を譲って隠居しました。
輝宗の真意がどこにあったのかは残されておりません。物語としては、政宗の才能を見抜いた輝宗が、伊達家の飛躍のために政宗に実権を譲ったという調子で語られることもありますが、ことはおそらくそう簡単ではありません。
というのも、政宗の方針は輝宗とはだいぶ異なっており、外交的に奥州を掌握することを目指す輝宗に対し、政宗は何につけても軍事力に訴える傾向がありました。
この異質さは、輝宗にとっては危ういものとして感じられていても不思議はありません。事実その性向の結果、良直を失い、政宗自身も四倍の戦力に追い詰められる事態になったわけですから。
とはいえ人を見る目のあった輝宗のこと、自分が後見人として監督し、我が子がもうちょっと落ち着くまで面倒を見てやれば心配はいらないだろうという気持ちはあったかもしれません。確かに軍事的な才能にはあふれていた政宗ですから、外交達者の父の下で経験を積めればよかったでしょう。

最期

ところが隠居の翌年、政宗と大内定綱の争いのもつれから、二本松義継との戦いが始まりました。義継は降伏を申し出ましたが、伊達側の要求は苛烈で、義継側もすぐには応じられないものでした。最終的には要求を受け入れ、義継の降伏が決まり、義継たちは輝宗に謝意を表すべく宮森城に出向きました。
そこで何が起きたのか、正確には伝わっておりません。不穏な発言を耳にした二本松側の家臣たちが疑心暗鬼になったとも言いますし、政宗が義継を生きて返さないつもりだったとも言いますが、身の危険を感じた義継は輝宗を人質に取り、宮森城を出ました。
追っ手の伊達勢としても、先代が人質とあっては手が出せず、追跡はしたものの攻撃は仕掛けられなかったようです。そうこうするうちに、二本松領の近くで、政宗が現場に到着しました。
輝宗自身が攻撃を要請したとも言いますし、攻撃の気配を察した義継が輝宗を刺して自害したとも言いますが、いずれにせよ伊達勢は鉄砲を放って攻撃を仕掛け、数十名いた二本松勢を皆殺しにしました。
享年四十二歳。
この後政宗は窮地に陥り、外交的にも非常に苦しい状況を迎えますが、この事件がなければその苦況はだいぶ緩和されたことでしょう。

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