北条綱成

他家の生まれでありながら北条氏の一門に迎えられ、勇名をとどろかせた猛将にして、外交の担当もこなした知勇兼備の将です。
出自
1515年、今川家の家臣であった福島正成の下で生まれました。父は今川家の重臣であったと見え、武田信虎の治める甲斐攻略の総大将として一万五千の兵を率いて出陣しました。
戦いは優勢に推移し、信虎を躑躅ヶ崎館から引き上げさせるほどでありましたが、奇襲を受けて討ち取られ、部隊は壊滅しました。
その後、まだ幼い綱成は家臣に伴われて隣国の北条氏綱の下に身を寄せたと言われます。この過程で何があったのかはわかりません。敗将の責が子にまで及んだのかどうか、何にせよ今川家に居続けることができなくなったのでしょう。
一説には、武田との戦いで正成は死亡しておらず、後に起こった今川家の家督争いでの派閥闘争に敗れて氏綱を頼ったともいわれています。
家督争いである花倉の乱が起きたのは1536年ですから、この場合はすでに元服も済ませ、武将としての活躍もしていたかもしれません。綱成と名乗る前の名前は全く不明ですので、幼名である勝千代から、気に入ってくれた氏綱の綱の字と父正成の成をもらって綱成と名付けられたと考える方がすっきりはしますが。
改姓
いずれにせよ、綱成は若くから勇猛で、その才を主君となった氏綱に高く評価されました。そうして氏綱の娘をもらい、北条氏の一門として、姓を福島から変えました。それからすぐ、1536年には長男康成(後の北条氏繁)が誕生しています。
花倉の乱が起きたのと同年ですので、それから北条家臣になってすぐ子供が生まれるというのでは時期が合いませんので、この説を成立させるには他の資料が必要そうではあります。
綱成は後に、氏綱の三男である為昌の養子になります。為昌は綱成よりも年少だったのですが1542年に病没してしまい、その家督を継ぐための養子縁組でした。こうして家督としても、綱成は北条家の直流となりました。
河越夜戦
これ以降関東地方が激動の時代を迎える、歴史の流れを決定づけた決戦です。1546年に起きたこの戦いでは、綱成が大活躍をしています。
前年の七月から関東の諸勢力、総勢八万とも言われる大軍を擁して古河公方・足利晴氏、関東管領・上杉憲政、そのライバルであった上杉朝定たちが奪われた川越城を取り返し、生意気な新興勢力である後北条氏を脱落させるための共同戦線を張りました。
氏綱が籠城する川越城は大軍に包囲され、孤立しました。時を同じくして西では今川義元が兵を繰り出し、北条氏は東西に戦線を抱えることとなります。時の当主であった北条氏康は今川家の要求をのんで講和を結び、川越への援軍に向かいましたが、戦力は八千ばかり。籠城軍が三千といわれていますので、合わせても八倍の戦力に立ち向かわねばなりません。
城攻めには三倍の戦力が必要だといわれていますが、籠城軍に対しては二十倍以上の兵がいました。それでもなお半年も続く包囲戦を行ったのは、綱成の勇名のためといわれています。
たった三千の兵に対して八万の兵をもって半年もの包囲で緊張感を維持することは難しいものがありました。北条方は連合軍に対して何度も降伏の書状を送り、助命嘆願を続けるという低頭平身に徹しました。
ついにある夜、氏康の八千が奇襲を仕掛けました。上杉憲政、朝定の陣に切り込み、朝定を討ち取る戦果を上げます。続いて綱成も城内から打って出て、足利晴氏の陣に乗り込んで、「勝った! 勝った!」と叫びながら戦ったといいます。
こうしてさんざんに追い散らして、連合軍は崩壊。扇谷上杉氏の滅亡と、古河公方の権力の失墜に乗じて、後北条氏の勢力が拡大されていきます。
たった三千の兵で八万の戦力を半年間も支えたことが、この大番狂わせにつながりました。
後に武田信玄と戦ったときにも、信玄に高く評価され、勇猛さで苦しめました。
晩年
1571年に同年の主君であった氏康が亡くなったのち、出家して道感を号し、家督を康成に譲りました。綱成が死んだのはそれから十六年後の1587年、豊臣秀吉の小田原征伐の少し前の頃になります。











