今川家臣にあって、内外から高く評価された優れた武将です。桶狭間という織田氏の隆盛から、武田氏の滅亡の直前まで活躍しました。
出自
今川義元の臣として、花倉の乱でも戦功を上げた岡部親綱の子として誕生しました。残念ながら資料が不足、あるいは混乱していて、誕生年や兄弟の関係については分かっていません。
太原雪斎が率い、三河から織田氏の勢力を駆逐したという第二次小豆坂の戦いでも元信の活躍の記録が見られ、織田氏に対する前線基地として非常に重要な役割を持っていた鳴海城の城主に任命されるに至っています。
桶狭間
1560年、桶狭間の合戦で主君今川義元が討ち取られました。
今川軍は総崩れであり、指揮系統も混乱し、組織的な抵抗力が失われ、今川家はなすすべもなく飲み込まれたという認識も強いかと思われます。そのすべてが間違いというわけではないのですが、少なくともこの岡部元信こそは、その混乱期にあって信長に一矢報い、今川家の面目を支えた武人でした。
義元が討ち取られはしたものの、前線であった鳴海城には相当数の戦力が残されており、元信自身も戦意を失いもせず、自らの役割を果たすことに注力した結果、侵攻する織田の軍勢に打撃を加え、さらなる進軍を阻止しました。
元信は鳴海城を明け渡す条件として、主君の首級を求めました。信長はこの交渉に応じ、元信の忠義に応じるため、義元の首を棺に収め、丁重に送り届けたと言います。
鳴海城を引き払った元信は、帰路の途中、刈谷城を百名ばかりの手勢で攻めて、城主水野信近を討ち取りました。
その後今川家は、西からは徳川家康の攻撃を受け、北からは武田信玄の攻撃を受けて滅亡。元信は武田家の家臣となりました。
高天神城の戦い
駿河と遠江国境近くに、高天神城という有名な城があります。遠江の支配において非常に重要な役割を担った城で、東から遠江を守るにしろ、西から駿河を守るにしろ、なくてはならない城でした。堅城でも知られ、信玄でも落とせませんでした。
その城が1574年、信玄の後継者、武田勝頼によって徳川氏から奪い取られました。
やっとの思いで奪い取った城、ついにさらに西へと徳川氏の本領へ攻め込む足がかりを得たと言えるこの城の城主に任じられたのが、元信でした。
守兵は千人。
翌年、勝頼は有名な長篠の合戦に挑み、織田徳川連合軍に大敗を喫しました。
徳川軍は攻勢に出、今度は高天神城は西からの攻撃を支える城として戦いを始めました。
徳川家康といえども元信が守る堅城を容易く落とすことはかなわず、長篠の戦いのあと、続けざまに付近の城を落としたものの、そのままこの城までなだれ込むことはできませんでした。
代わりに周囲を取り囲むように、何年もかけて包囲網を狭めていき、いよいよ1580年になって、完全に高天神城は孤立しました。
元信は勝頼に救援の要請を出しましたが、北条氏との抗争の最中であった勝頼は、それを拒絶。孤立無援となった元信は徳川氏に降伏を申し入れたと言いますが、信長の指示によってそれも受け入れられませんでした。
信長は高天神城を見せしめとして、勝頼に見捨てられた城して宣伝するために、降伏を許すなと家康に通達してありました。
こうして味方には助けてもらえず、敵は降伏を受け入れてくれないという状況のまま半年が過ぎ、いよいよ兵糧もつきて、兵が餓死し始めた頃。
元信たちは動ける兵士を率いて場外に打って出て、敵陣に突撃を敢行して討ち死にしました。元信の攻撃を受けた大久保忠世隊では、まさか大将自身が先頭になって突撃するとは思ってもいなかったようで、後の首実検でそれが元信だと分かったときには驚いたようです。
高天神城がこのような形で落城した後、武田氏では木曽義昌を始め離反が相次ぎ、1582年の三月に滅亡しました。高天神城の落城からは、ほぼ一年後のことです。