太原雪斎  

僧でありながら武功も多いという珍しい人物です。今川義元の教育者であり、相談役でもあり、今川家の隆盛に寄与しました。

出自

1496年、今川家の家臣であった庵原政盛の下で誕生しました。十四歳の時に出家して仏門に入りました。この頃は九英承菊と名乗っており、以後も何度か改名していくのですが、ここでは太原雪斎で統一します。
雪斎は若くから才能があったようで、今川家の当主氏親の耳にも入っているほどでした。そのため、雪斎がまだ三十になるより前の頃、氏親に新しく生まれた五男の教育係として招聘を受けました。雪斎はこの誘いを二度断り、三顧の礼を以て腰を上げたと言います。
こうしてまだ幼い芳菊丸を教育することになったのですが、この子が後の今川義元でした。

当主擁立まで

芳菊丸には兄が多く、継承権は長男の氏輝が持っていましたので、仏門に出されました。六歳からは雪斎の指導は寺で行われるようになりました。雪斎は芳菊丸と共に京へも赴き、いくつもの寺を渡り歩き、公家とも交流がありました。
このときの経験は、後に公家流の化粧をした義元に影響を与えているのかもしれません。
1536年、当主になっていた今川氏輝が若くして亡くなりました。嫡子がいなかったため、弟である彦五郎が継ものと思われましたが、この彦五郎もまた同日になくなるという異常な事態でした。そこで今川家の家督を継がせるべく、雪斎らは芳菊丸を還俗させ、足利将軍家義晴の名をもらって義元と名乗らせたのです。
ところが今川家臣、福島氏が義元の兄を擁立して対抗。ここで家督争いが起き、これは花倉の乱と呼ばれます。この戦いにおいて雪斎は一軍を率い、花倉城を攻めて擁立された玄広恵探を自刃に追い込みました。
これで義元が当主となり、働きのあった雪斎はなおさら信頼を得て片腕・・・むしろ両腕として重用されていくことになります。

義元の陰に雪斎あり

義元の政治の主立った記録には、常に雪斎の動きが見られます。
義元が当主となってすぐ、武田家との婚姻を結びましたが、これは雪斎が主導したと言われます。しかしながらこれに反感を示した北条氏綱に攻め込まれ、駿河東部を奪われることになります。
これをすぐに取り返そうとはせず、雪斎は時期を待ちました。
1545年、古河公方や両上杉家の主導で反北条同盟が組織されたのに乗じ、今川家も兵を動かし、大きな戦いをせずに奪われた領土の返還を実現させました。
後には、西進のための下準備として、北の武田と東の北条を和するために、今川家も加えて三国同盟を結びました。
分国法の制定にも寄与し、商業政策や寺社衆の統制も強化しました。
このように、義元が行ったとされる政治は、雪斎の功績と記されるものとほとんどが重なってしまいます。
また雪斎は僧でありながら武人でもあったようで、城を攻めて織田信広を捕縛しています。このとき信広は、竹千代(徳川家康)と人質交換されています。これは、三河の松平氏が今川家に従属する際、嫡男竹千代を人質に出したのですが、松平家の家臣が離反して竹千代を織田信秀の下に連れて行ったことによります。
一説には、雪斎は家康の教育係も務めたと言われていますが、定かではありません。

晩年

三国同盟を成立させたのが1554年のことです。こうして北と東は安定し、敵は西の織田信秀だけという状態を成立させました。今川家の進路を確定させた後、1555年に六十歳で亡くなりました。
その数年後、義元は桶狭間の戦いで討ち取られてしまうわけですが、雪斎は人物としては優秀だったが、教育者としては失敗だったとも見なされることになります。本当に家康が弟子の一人であったなら、その汚名も晴れるのでしょうけども。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページ上部へ戻る