三好実休

三好長慶の弟にして片腕であり、実休を失ったことが三好家の凋落を早めました。兄とは違い主家殺しにも手を染めましたが、非道を苦にしない人物でもなかったようです。

出自

1527年、三好元長の次男として誕生しました。実休は戒名で、後に出家した際に名乗ったものなのですが、諱は正確には分かっていません。いくつかの文書では義賢と記されており、これが一般的には広まっているようです。

二十歳になる前に、阿波守護の細川持隆に仕えました。阿波細川家は、管領である細川家の分家であり、当主細川晴元は持隆の従兄弟に当たります。
細川家と三好家の因縁は浅くなく、1532年には主君であった晴元によって、実休たちの父元長が謀殺されています。

持隆殺害

元長の死の後、長慶たち三好家のものは阿波へと逃れました。そのときに庇護し、支えてくれたのが持隆でした。細川家の当主たる晴元に疎まれて排除された元長の遺子たちをかくまうというのは、相応の覚悟がなければできないことだったかもしれません。
そのあたりの機微を伝える資料は残されていないのか、細川家の間でどのようなやりとりがあったのかは不明です。しかしいずれにしろ、元長の子供たちにとって、晴元は敵であり得ても、持隆はそうではありませんでした。

しかし、1553年、実休は持隆を見性寺で討ち、子の真之を守護職として擁立しました。
この時期といえば、三好家は細川家の実力を凌駕し、将軍足利義輝とすら争って京から追い出すほどの権勢を誇っていました。
同じ細川一門として、持隆も状況を静観していられなくなっていたようです。そして細川氏と将軍家の権威を取り戻そうという活動は、三好家の利害とは衝突せずにはいられません。
その結果が、実休には主家殺しという手段しかなかったのでしょう。
三好氏には長慶をはじめとして、主君と争った記録が多く、家臣松永久秀の伝記なども伝えられていることから、弑逆の一門として語られることもあります。
実休が仏門に入りこの名を名乗ることにしたのは、持隆を殺害してほどない頃でした。

文化人として

実休は若い頃から出陣を重ね、各地を転戦した百戦錬磨の武将でしたが、同時に茶道を愛した文化人でもありました。信長の時代にはこういった有名な人物も名を連ねますが、この時代ではまだ珍しいのではないでしょうか。
五十もの茶器を有し、その多くは後に信長に受け継がれ、本能寺で失われたといいます。
出家した者としても、妙国寺を創建するという功績を残しています。

戦死

将軍家を傀儡化し、主家細川家も従属状態、京から四国東部にかけて広大な領域を誇った三好家でしたが、たった一人、長慶の弟の一人である十河一存の病死から流れが変わり始めます。
猛将と知られる一存の死を隙と見た六角氏や畠山氏が兵を挙げ、三好氏を南北から攻撃しました。実休は南からの畠山氏の攻撃を支える任を担いました。
戦いは半年以上にもわたり、春を迎えたある日、畠山勢が大規模な攻勢を仕掛けてきました。
戦いは混戦模様になり、連携が切り離されるのを防ぐために余力を投入したとき、実休の本陣が手薄になりました。
そこを根来衆の鉄砲隊に狙われます。こうして実休は討ち取られ、大将が鉄砲で戦死する初めての例とされることになります。
実際に鉄砲の弾で絶命したのか、下馬ないし落馬した後に自害したのかまでは定かではありません。

実休には、辞世の歌が残されています。
これは弟の安宅冬康とのやりとりの中で出てきたもので、

「草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず」

報いの程というのは、持隆を殺めたことを指すようで、終生実休が気にかけていて、心から晴れることがなかったと考えられています。

最後の合戦は1562年、3月5日のことでした。
実休は享年三十七歳。相次いで優れた弟たちを失った三好氏は統治力を大きく損ない、さらに後継者義興の早世と続いて、長慶は心身を病んで凋落を迎えることになります。

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