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    Categories: 武将紹介 三好家

三好長慶

主家細川家と戦い、足利将軍家とも戦い、畿内の実権を掌握するに至った名将で、時に下克上の見本のように語られることもあります。しかし、革命児というよりも保守的といいたくなる面も多い不思議な人物です。

誕生から家督相続まで

1522年、当時京で権勢を誇っていた細川家の重臣、三好元長の子として生まれました。細川家の当主であった晴元のライバルを討伐するに尽力のあった元長は、細川家中でも強い力を持ち、それ故に警戒されていました。
そのため、晴元たちの策謀により、一向一揆の襲撃を受けて死亡。当時まだ十歳だった長慶が家督を継ぎました。

歴戦の勇将として

長慶の戦歴は非常に多く、若くから幾度も陣中にありました。
まだ十二,三歳の頃から本願寺の一向宗と戦い、本願寺と結んで細川家と戦い、同族の三好政長と戦いと、東国の有名大名である武田信玄や上杉謙信などにも引けをとりません。
もちろん、そのすべての戦いに勝利してはいませんが、それは信玄や謙信でも同じです。
しかも戦う相手と結ぶ相手に、同じ名前が出てくることもしばしば。細川晴元と共に細川氏綱と戦ったかと思えば、氏綱を担いで晴元と戦ったり、足利義輝を奉じて上洛を支えたかと思えば義輝と戦って京から追い出したりと、敵と味方が入り乱れる、まさに「昨日の友は今日の敵」という有様でした。

しかしながらそうして激しい戦いを繰り広げた敵の大将を、長慶は手にはかけませんでした。
最終的に晴元は幽閉されましたし、義輝は三好三人衆らによって暗殺されましたが、長慶は手を下していません。
そればかりか、戦いの後に和睦をするとなれば晴元や義輝の身柄を手厚く保護し、自軍を割いて警護にもつかせています。
長慶の勢力と軍勢があれば、京から落ち延びた晴元や義輝を追撃し、六角氏の援助の限界を超えて攻勢を取って、邪魔者を消し去ることもできないはずはありませんでした。
晴元からは人質として昭元という子を預かっていましたが、晴元が何度兵を挙げて三好氏に背こうとも、昭元は殺害されることもなく、無事に長慶の手によって元服を済ませています。
長慶は間違いなく下克上の士でしたし、主家と争い将軍家も下し、実権を力によって簒奪したことは間違いないのですが、どうしてか冷酷非情とはほど遠い人物でした。

畿内の覇者

細川氏綱は長慶の貢献によって細川家の当主となり、管領に任じられて名目上の三好家の主家を続けました。長慶は義輝に対しても、争っている時を除けば将軍家に対して礼を尽くしており、関係の維持と調整のために最も信頼していた松永久秀を当てています。
長慶の勢力圏は山城から、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨におよび、近江、伊賀、河内、若さなどにも影響力を持つという状態で、当時の勢力としては関東の後北条氏くらいしか匹敵するものはないだろうともいわれています。

晩年

1561年、弟であり、領土を統治する上で欠かせない人物であった十河一存がなくなりました。
統治に乱れが生じ、畠山高政らが軍を動かしました。討伐に向かった三好実休が戦死。実休もまた長慶の弟でした。
その二年後には、今度は嫡男義興が病死。
十河一存の子を養子として迎えましたが、この頃から心神耗弱が見られるようになったといいます。
続いてこれまた弟の安宅冬康を殺してしまいます。
これは、長慶の精神力が弱体化したことにつけ込んだ松永久秀が、主家を乗っ取るために讒言したことによるとも言われています。
こうして立て続けに肉親を失った長慶は意気を失い、もはや統率をとる力は残っていませんでした。それから二ヶ月ほどの後、1564年に四十三歳で病没しました。
足利義輝が襲撃を受けて殺害されたのは、そのおよそ一年後のことです。

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