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    Categories: 武将紹介 佐竹家

太田資正

上杉家の家臣であった資正ですが、紆余曲折あって北条、宇都宮、小田、佐竹と主君を次々と渡り歩いています。
戦に明け暮れ、戦闘の経験は数えきれず、それでいて外交、謀略にも名を残す、名将と呼ぶに不足のない人物です。

誕生から家督相続まで

1522年、太田資頼の次男として誕生しました。太田家は扇谷上杉家の家臣に当たり、当時の主君は上杉朝興でした。
1536年に父が亡くなると、兄の資顕が家督を継ぎました。兄とは不仲であったようで、資正は太田家の居城岩付城ではなく、舅の松山城で暮らしました。
この時期の関東地方は勢力を増していた後北条氏を中心に混乱を迎えます。
1546年の河越夜戦で主君上杉朝定が戦死すると、資正も松山城を失って落ち延びました。
翌年には奪還し、資顕が死んだ隙に岩付城を攻め落とし、太田家の家督を継ぎましたが、程なくして北条氏の攻撃で松山城主、上田朝直(資正とは縁戚)が降伏。資正自身も岩付城を包囲されるに至って、北条氏の家臣となりました。

佐竹義重の家臣になるまで

後年、北条氏との対決姿勢を崩さなかった資正ですが、この時期の処遇が特別悪かったということではありません。
北条氏康は名門太田家の立場を重んじ、太田家を古河公方の家臣として扱い、資正の嫡男氏資との間に婚姻を結びました。しかしながら資正の心中は反北条で固まっており、1560年、長尾景虎が北条氏打倒のために遠征を行うとこれに呼応、北条氏に対して反旗を翻しました。
この後1564年まで関東地方で北条氏と戦火を交え続けましたが、氏資が離反して父である資正を追放して北条氏に降りました。
その後一度は下野の宇都宮氏に属したようですが、すぐに佐竹義重の家臣となって終生反北条の武将として戦い続けました。

資正と小田氏治

佐竹氏の家臣となった資正は、長い間、常陸国に小田氏ある限り氏治と戦い続けました。
佐竹氏の臣となった当時、義重にとっての目下の敵は氏治でした。勝てない相手ではないものの、とても面倒な敵でした。
資正は何度も小田城を奪い、手這坂の合戦で小田勢に大きな打撃を与えて以後の小田城奪還を許さないまでにしました。
最後の最後まで、氏治から小田城を守り続けたのも資正親子です。

ところがここに、もう一つのエピソードがあります。
岩付城を追われた資正が佐竹氏に仕えるまでに、宇都宮氏や上杉謙信などの名前が出てくる資料もあります。そしてもう一つ、小田氏治の名前もあるのです。
それによれば、上杉家の家臣であった資正が、小田家に仕えたとされています。
ただし氏治に仕えていた期間はごく短く、どうやら長くとも数ヶ月のようです。氏治は資正の名声を聞き及んでいましたので、重く取り立てたようです。
そして片野、柿岡の城を資正とその次男梶原政景に与えました。
ところがそうしてすぐに、資正親子は佐竹義重に、城ごと寝返ってしまいました。ここに、氏治と資正の終わらない因縁が始まったとする話もあります。

晩年

豊臣秀吉の小田原遠征では当然豊臣方にはせ参じました。
豊臣家の介入により常陸小田氏は改易され、所領を失いました。こうして宿敵であった北条氏と、腐れ縁とも言える小田氏との戦いが終わりました。
戦いに疲れたのか、なすべき事をなし終えてしまったからか、悲願であった岩付城に戻れないことが明らかとなったからなのか、小田原征伐の翌年1591年に亡くなりました。
太田家の家督は三男の資武が継ぎました。
資武は後に結城秀康に仕え、越前転封にも従っています。
奇しくも、長年戦い続けた小田氏治と同じ主君を持ったことになります。
資正の次男、梶原政景も出羽転封の後、しばらくして結城秀康に仕えていますので、秀康の元に曰く付きの人物が集まったことになります。

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