足利義輝

室町幕府の第十三代将軍にして、剣豪将軍の異名で知られています。
幼くして将軍になり、権謀術策にも才能を見せました。
齢三十にして命を落としましたが、室町幕府の権威と権勢を取り戻し得た最後の将軍として評価されています。
誕生から将軍位継承まで
第十二代将軍足利義晴の嫡男として、1536年に誕生しました。
義晴は家臣である細川氏と抗争を続けており、何度も京を逃れています。
十一歳にして父より将軍位を譲り受けますが、この儀も落ち延びた前近江国で行なわれました。
このときに元服も済ませましたが、その時の名は義藤といいました。
後に義輝は、多くの人物に偏諱を与えています。上杉姓と関東管領職を継いだ上杉輝虎が有名ですが、他にも伊達輝宗や島津義久などもいますし、細川藤孝や筒井藤勝もいます。このときの藤の一字は、義藤からきています。
三好氏との政略闘争
義輝の政敵は細川氏の家臣、三好長慶でした。長慶は晩年のせいで名声を落としていますが、非常に優れた人物で、将軍家、管領家を傀儡として実験を握るほどに三好家の勢力を拡張しました。
義輝は長慶と何度も兵を向け合い、幾度も敗れては京を逃れて近江六角氏に保護されています。そのたびに和議は結びますが、もちろん三好氏にとって有利な条件を受け入れねばなりません。
その中でも三好氏を取り巻く情勢の変化に応じて舵を取り、将軍家の力を取り戻そうとしました。代々幕府の政所を掌握してきた伊勢氏と長慶の不和を利用し、伊勢氏を遠ざけることが出来ました。
長慶が実権を握っている間でも、義輝は全国の諸大名に干渉しています。
甲斐武田と越後上杉の戦争の調停をはじめ、島津・大友、毛利・尼子、松平・今川にも働きかけるなど、西から東までに未だ影響力を持っていました。
大名間の調整は幕府の通常職務ですので、このときの将軍家は、幕府の当然の仕事を果たせていたといえます。
雌伏のとき
長慶の権勢は強く、将軍家にそれを退ける力がないことは明白でした。義輝にできることは、幕府の威信を保ち、三好氏の勢力にかげりが見えたときに駆けつけてくれる味方を作っておくことです。たとえば長尾景虎などは心強い味方であり、義輝の時代に二度の上洛を果たしてくれています。
二度目などは五千とも言われる軍勢を率いており、その兵が在京の間は三好氏もおいそれとは動けないほどの威圧感があったとも言われています。
大友氏なども非常に親しい大名でした。
こうして地道な政治を続けていくことで、いつかは・・・という期待を持っていたはずです。
また長慶も、将軍家を利用することはしましたし、相争いもしましたが、根絶やしにする意図は見られませんでした。
長慶の用兵を見る限り、義輝や主君筋の細川氏に対して甘いところもあり、後世には優柔不断と評される事もあるほどです。
長慶の死と、義輝の死
1564年に長慶が病死したことで、長年の手ごわい政敵がいなくなりました。
義輝にとっては将軍家の権威権勢を取り戻す本格的な戦いに打って出る好機です。
しかしこれがかえって、義輝を死期を早めたともいえます。
長慶は保守的な価値観を持っていたとも言われ、忠臣とは言いがたいものの、将軍家の権威に対して敬意を払っていました。
しかし三好家の重臣、実権を握っているともいえる松永久秀はそのような人物ではありませんでした。
久秀らは足利義栄を新将軍にするべく画策し、長慶の死の翌年、二条御所を急襲しました。
義輝は塚原卜伝から新当流を学んだといわれ、襲撃の際も名刀の数々を畳に刺して用意しておき、切れ味が悪くなるたびに新しい刀で戦ったという逸話が残されています。
長慶ほどの政敵と渡り合い、将軍家の力を取り戻そうとした義輝ですが、こうして三十歳の若さで討たれました。











