菅谷政貞

常陸小田氏の家臣で、不死鳥小田氏治を不死鳥たらしめた知友兼備の将です。最終的には菅谷氏は、主家よりも厚遇されることになります。その礎を築いたのが政貞でした。

出自

1518年に、父菅谷勝貞の下で生まれました。勝貞は菅谷家の生まれなのですが、のちに信太家に養子で入っており、資料では信太勝貞と記されていることもあります。
後に菅屋姓を名乗ることになり、この辺りで信太家とは関係を悪くしていました。
勝貞は小田政治の下で軍功を上げ、土浦城主についていました。政貞もまた父と共に土浦城を拠点に主君を助けました。

氏治の陰に政貞あり

小田氏治は佐竹、結城、北条、上杉と関東圏の有力大名とたびたび争い、そのたびに居城である小田城を奪われています。
ところが奪われる側から取り返し、再び小田城に復帰することから、常陸の不死鳥という洒落た呼び方をするファンもいます。
小田家中には勇猛な武将が揃っていたと伝えられていますが、中でも名高く評価されているのが勝貞・政貞親子です。
氏治は居城を奪われるたびに土浦城を頼りました。そのたびに菅谷家は主君をもてなし、兵を出し、小田城を取り戻してあげるのです。実に十回ほども同じ城を取られるたびに取り返してあげるなどという例は、なかなか他には見かけないものです。

1573年以降、もはや佐竹家に対する劣勢は明らかで、小田城を取り戻すことも出来なくなっていましたが、政貞の忠義が揺らぐことはありませんでした。

策士として

幾たびも出陣した勇将である政貞ですが、計略にも通じていたと思われる逸話が残されています。
ある時期、土浦城主は小田家臣の信太範宗が務めていましたが、範宗には反抗的な気配が見られました。
先に行なわれた手這坂の合戦では、信太氏は戦闘前に帰還を主張していました。
それを氏治が「梶原(政景)の首を取らねば帰れん」と強行したのを、笑い飛ばしていました。
のちに氏治は要害であった土浦城を求め、代わりに藤沢城に移るように言いましたが、範宗はこれを拒否。
そこで政貞は一計を案じ、あえて氏治と反目して叱責を買ったのです。
そして範宗に対して謀反の誘いをかけると、範宗がこれにのってきました。
そこで、宴に誘い出して殺害することで、土浦城を奪いました。
後年、その時の範宗の怨霊を鎮めるために信太八幡が建てられたと伝えられています。
また政貞は外交の担当者でもあり、上杉家との交渉などでも活躍しました。

忠臣として

小田氏の力が衰えるにつれて、菅谷氏を取り巻く圧力も強くなり、一時期佐竹氏に下っていました。小田氏の救援として北条氏政が兵を出し、土浦城を攻めたときのことですが、菅谷氏はすぐさま降伏して土浦城を明け渡しました。
この辺りでは正式な家督は子の範政に譲っていたものとは思われますが、この頃はまだ菅谷家の大きな動きには政貞が関係していると思われます。
勝貞から政貞、範政と菅谷家の忠勤は他国にもよく知られるところであり、非常に高く評価されていました。
そのため、小田原参陣の件で常陸小田家がなくなり、氏治がなんとか結城秀康の下で仕えることが許されたのとは対照的に、範政は浅野長政の推挙を受けて徳川家の旗本となりました。
それは1596年のことされていますので、政貞が亡くなった後のことではありますが、大出世です。菅谷家は十年後には五千石に加増されて、常陸国筑波の領主として幕末まで続きました。

晩年

小田氏の手這坂での敗北以降、政貞の活動と範政の活動の区別がつきにくくはなっていますが、氏治が常陸を離れ、結城秀康と共に越前に移った頃も氏治と行動を共にしていたといわれています。
範政は土浦城を離れて以後は野に下っていたそうですので、親子は離れ離れだったようです。
1592年、七十五歳で亡くなりました。

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