十五代続いた常陸小田氏最後の当主です。源頼朝の落胤といわれ、千葉氏と共に東海道大将軍を務めた八田知家から始まる小田氏は、氏治の代で所領を失いました。
お世辞にも優れた大名であったとは言えなかった氏治ですが、常陸を離れるまでの物語は、決して単調なものではありませんでした。
誕生から家督相続まで
氏治の父政治は、一説によれば堀越公方からの養子であると言われており、これが事実ならば氏治は十二代将軍の従兄弟に当たります。
1534年の誕生と言われていますので、川越合戦のころには十歳ほどだったことになります。
それから三年ほどで政治の死に伴って家督を相続していますので、十四歳にして当主となりました。
若年の当主を迎えた戦国大名には様々な混乱が付き物であった時代で、氏治と言えどもそういうものと無縁でいたわけではありませんでした。
それまで小田家臣であった真壁久幹が結城氏へと寝返りました。久幹は戦上手で、後年小田氏にとって大変な強敵となりましたし、子の氏幹もまた勇猛な武将として知られています。
合戦に継ぐ合戦
氏治の合戦の記録は1555年から登場します。
この時期はまだ佐竹氏とは協力関係にあり、共に北条に与した結城氏と戦っています。かし北条氏の援軍によって押し返され、居城小田城を追われ、土浦城へ落ち延びました。
当時常陸国では佐竹氏が勢力を伸ばしていました。江戸氏の反乱も押さえ込み、順調に勢力を拡張でした。その佐竹氏と小田氏は縁戚であったわけですが、その協力関係の切り崩しのため、北条氏は小田氏と講和を結びました。
これで結城氏との戦いを北条氏に邪魔されずにすむようになったため、小田城を奪回しました。
翌年には氏治は佐竹義昭と戦い、小田城を追われています。
そしてその翌年には長尾氏の支援を受けた佐竹、多賀谷氏によって三度小田城を奪われました。この頃、長尾景虎の仲介で佐竹氏と和議を結び、それからしばらくの間、対北条で共同しています。
しかし、その関係も長くは続かず、上杉氏(関東管領を継承した長尾景虎)と北条氏の戦いを代理するかのように、小田氏と佐竹氏ははげしい戦いを繰り返します。
1564年、66年と上杉氏との戦いで敗北し、小田城を奪われています。
73年にも二度奪われ、この年を最後に、やっと小田城を失うことはなくなりました。
しかし戦いの記録はまだまだ続き、豊臣秀吉の小田原遠征の直前まで、小田氏と佐竹氏の戦いに決着はつかなかったのです。
下克上の時代?
氏治は何度も何度も小田城を奪われ落ち延びています。それはつまり、何度も何度も小田城を奪い返しているということでもあるのです。奪い返さなければ、もう一度奪われる道理はありませんから。
氏治はとても合戦がうまかったとはいえず、氏治が指揮を取って勝利することは少なかったようです。
しかしながら、何度も何度も主君の居城を奪い返した名将菅谷一族をはじめとして、忠実な優れた武将には恵まれていました。
戦国時代と言えば下克上の時代です。その時代にあって、どうしてこのような主君に忠義を尽くし続けたのかは定かではありませんが、氏治は人望は備えていたようです。
氏治が何度も何度も勢力を盛り返すことが出来たのは、民の信頼もあってこそです。記録によれば「百姓町人に至るまで頼朝以来の譜代であるため、新しい領主に年貢を納めず、旧主小田家に年貢を納めに行ってしまう」そうです。
晩年
豊臣秀吉の小田原遠征に際し参陣を命じられましたが、佐竹氏との戦いで忙しかった氏治は、それを無視してしまいました。当然秀吉の勘気に触れ、所領は没収。
こうして常陸小田氏が終焉を迎えました。
それでもなんとか許しを乞い、娘が側室に入っていた結城秀康の客分として仕えることが許されました。
その後は秀康の越前転封に従い、越前にて没しました。享年六十八歳、1602年のことです。
同年、佐竹氏の出羽転封に伴い、小田城は廃城とされています。
十五代にわたって小田氏の居城であり、何度でも取り返し、最後まで奪還を試みた城も、時代の流れによって、必要とされないものになってしまいました。