和田昭為

戦国時代の佐竹家における第一の臣とも言える重臣です。義昭、義重、義宣と三代に渡って仕え、内政・外交において重要な役割を担いました。しかし、そこには紆余曲折がありました。

出奔まで

初期の記述として、義昭の時代、1550年にその活躍が見られます。
若くして家督を相続した義昭に対して江戸氏が反旗を翻し、争っていた時期です。
この年も江戸氏とは戦火を交えており、その際に昭為の功を賞した文書が残されています。
江戸氏が佐竹家に降伏したのは、この翌年のことです。
義重の代に移るよりも前の1559年ごろ、すでに昭為は領内の知行に対して意見する立場にありました。
小田野氏との連署にて当主義昭の署名のない文書で、佐竹家臣に対する所領を保証しています。
佐竹家の統治体制が、ある程度緩やかな封建制であったのだとしても、やはり昭為の立場を示しているように思われます。
ある時期の佐竹家家臣団における、文書の発給数の比較を見ても、知行に関する非常に重要な文書に強く関わっており、同じく佐竹家重臣であった小貫頼久・岡本禅哲らを凌いでいます。
また、義重の代になった後、同盟者であった上杉輝虎(謙信)の威信が低下したことがありました。
下総遠征が失敗した頃です。上杉家の力が弱まったことで、佐竹家との関係も遠のいて行ってしまいましたが、輝虎は佐竹家でも大きな影響力を持つ人物に、関係の取り持ちを依頼する文書を送っています。その一人が昭為です。

出奔

1571年、昭為は佐竹家を去り、敵であった蘆名方の白川氏に仕えました。
どうやらこれは車斯忠による讒言がもとだとされています。
佐竹家は当時、蘆名家との抗争の最中でありました。
あるとき蘆名家から昭為の下に使者が送られ、和睦を請われます。
しかし、その条件が飲めるものではなかったため、独断で拒絶して使者を帰らせました。
その知らせを聞いた斯忠が主君義重に、和田昭為に謀反の兆しありと報告。それを信じた義重により一家が惨殺されました。
昭為の息子三人を始め、犠牲者は二十人余りとされています。
昭為自身はからくも難を逃れたため、敵であった蘆名氏に走ったそうです。
一説によれば、この時最初は蘆名家に赴いたのですが、昭為の名声のためにかえって処置が難しい様子だったため、白川氏に変えたようです。下には置けぬし、上においては周りが納得せぬだろう、と。
現代に生きる我々の感覚としては、この後の昭為を復讐の鬼として想像しがちだと思うのですが、実情はまったく違ったものとなりました。
1575年、白河氏でお家騒動が起きたとき、佐竹家が白川氏に兵を向けました。
昭為はもちろん、仇討ちの機会とばかりに先陣を申し受け、白川勢の大将である白川義親とともに対佐竹の最前線に立ちました。
そして単独での突撃を慣行し、義親の軍勢が孤立したところを、かえって襲撃して義親を捕縛するという大戦果を上げました。
この戦火を土産に佐竹家に帰参を果たしたのですが、これは突如として思い立ったことではなく、内応を続けていた結果です。
かねてより、白川家の作戦行動は昭為により筒抜けでした。

隠居と川井事件

三代目の主君義宣にも重用され、出羽転封の際には常陸国内での残務処理を任されました。
転封後も小貫頼久とともに家老職を務めましたが、頼久の死後、昭為も隠居という話が出てきたところで、事件が起きてしまいます。
頼久に代わって家老となった川井忠遠らが、新参でありながら昭為の後をついで家老になりそうな渋江政光を暗殺しようと企てたのです。
計画は義宣の知るところとなり、首謀者達は一人を除いて殺害されました。
昭為も関与を疑われたものの、処罰はされませんでした。最後に、不名誉を受けてしまったことは残念だったでしょう。
その後は余生を送り、1618年、八十七歳という長寿で世を去りました。

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