誕生から家督相続まで
1570年、常陸太田城で誕生しました。父は十八代佐竹家当主義重であり、母は伊達晴宗の娘でした。伊達政宗とは歳の近い従兄弟になります。
十六歳のときに初陣し、数年の間に父より家督を譲られ、十九代目の佐竹家当主となりました。
父もまだ若く、実権は義宣にはありませんでしたが、後継者が若いうちに家督を継がせて育成するのは、祖父義昭から義重への交代の際にも見られます。
後継者を明らかにしておいた義昭のときですらも、突然の病死に際して国内が混乱しましたので、家督継承は早めにしておいた方が安定するという戦略を引き継いだのかもしれません。
小田原遠征から常陸統一
豊臣秀吉が西側を統一し、いよいよ小田原の北条氏を討伐することになったとき、佐竹家は伊達政宗との戦争中でした。
義重の代から秀吉とは関係を深めており、秀吉からの要請に応えて兵を率いて参陣しました。
このとき、石田三成とともに忍城の水攻めを行なっています。
北条氏が滅んだ後、南北の強敵に邪魔される事もなくなりましたので、水戸城の江戸重通を攻め落とし、太田城から水戸城へと本拠を移しました。
義昭の代に婚姻を利用して吸収を目論んだ大掾氏も直ちに下し、残った抵抗勢力を謀殺して常陸国の統一を成し遂げました。
この謀殺は、おとなしく服従しない南方三十三館の氏族を太田城に招き、酒宴を開いて油断したところを襲撃するというものでした。
統一した常陸国は五十四万石といわれ、徳川・前田・島津・毛利・上杉と並び称されるほどの力を持ちました。
石田三成との親交
義宣は石田三成とは特に親しかったという逸話が残されています。
小田原遠征の際、ともに戦っておりますので、その際に友誼を通じたのかもしれません。
この友誼が後に佐竹家の窮地を救っています。1597年、義宣の従兄弟にあたる宇都宮国綱が改易されました。
このとき浅野長政は佐竹家も改易すべく活動をしていました。ひとまずは三成のとりなしで改易は免れましたが、速やかにかつ長政に悟られぬように上洛し、秀吉に申し開きをすべしと助言を受けています。
義宣もまた、三成の窮地を救った話が残されています。
1599年、前田利家がなくなった後、加藤清正や福島正則ら七名で三成の屋敷を襲撃するという事件が起きました。
この際、義宣が三成の脱出を助け、宇喜多秀家の下で匿ったといわれています。
この件について、徳川家康に事情の説明を勧められた義宣は「三成に不正があったわけでもないのに討たれようとしたので、旧恩に報いて助けたまでである」と述べました。それを知らされた家康は「旧恩に報いるは義というべきであり、依存はない」と答えたといいます。
後に家康から「日本一の律義者。むしろ律儀すぎても困る」と評された義宣ですから、そういう事があっても不思議ではありません。
関ヶ原から大阪の陣
関ヶ原の合戦で曖昧な態度を示してしまったことで、佐竹家は常陸から遠ざけられ、出羽国へと転封を命じられました。三十万石ほどの減封のため、家臣たちの禄高も引き下げられ、連れて行けない家臣も大勢いました。
土崎湊城に本拠を構えた義宣は、以後内政にいそしみます。優秀な人物を能力主義に基づいて重用し、その中には後に家老になる渋江政光などもいました。
ただこの、浪人上がりの人材すらも家老にしようという方針は、旧臣たちの反感を招き、政光暗殺を企てた川井事件に繋がって行きます。
新参者が家老になるのでは、譜代家臣が軽んじられているのと同じだと、川井忠遠が首謀しました。
それを知った義宣は川井一派の粛清を謀ります。忠遠ら5名は、それぞれお役目を与えられて引き離され、各地で討たれました。
ただこのとき、小野玄蕃は義重のとりなしで助命されています。
義宣によって内政の基礎が築き上げられたおかげで、およそ二十万石程度だった秋田藩は、江戸中期になると四十五万石に成長していたといいます。
戦国時代が終わって久しい1633年、六十四歳で息を引き取りました。