酒井忠次

酒井忠次は酒井左衛門尉忠親としいて生まれました。忠次の妻は徳川家康の叔母で親戚関係にあたります。
忠次は家康の父・松平広忠に仕えていました。家康が今川家へ人質として出されると、これに随行しました。家康が今川家に人質にされている間、共に生活しています。家康が六歳のときに、忠次は二十二歳。家康より十五歳年上なので若い家康のそばに仕えて補佐する立場にありました。また、家康もそうした忠次に絶大な信頼を寄せており、家康の独立後は家老となります。
家康に忠義を尽くす忠次の姿は三河武士の鏡と称賛されました。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、徳川家の重要な合戦で数々の武功を挙げています。
三方ヶ原の戦いでは、家康が武田軍に大敗し、浜松城へ逃げ戻ってくると酒井忠次は太鼓を打って三河兵を鼓舞しました。このときの酒井忠次の思い切った行動は、後に「酒井の太鼓」として知られています。
長篠の戦いでは、軍議で武田軍の夜襲を提案します。しかし、織田信長に嘲笑され、一蹴されましたが、織田信長は軍議が終わると家康を通じて忠次を呼び出しました。
信長が「先ほどの嘲笑は、作戦の機密を守る為の偽りの言辞であった」と打ち明け、忠次に夜襲を命じます。結果、忠次の夜襲攻撃は成功。多大な戦功を上げました。その後も家康第一の重臣として、各地の政治面でも手腕を発揮し、徳川四天王の筆頭になりました。
小牧の戦いでは豊臣軍と対戦し、敵首を多く上げ、豊臣軍を敗走させる軍功を上げます。
家康が豊臣氏の傘下に入ったのちも、豊臣秀吉から家康第一の重臣として遇され、従四位下・左衛門督に任官されて京都桜井の屋敷と在京料として千石を与えられています。家康が関東に移封された時は、既に隠居して嫡子家次に家督を譲り、その後京都で生涯を終えました。織田信長、豊臣秀吉、家康の厚い信任を受けていた武将でした。
忠次のよく語られるエピソードが信康自刃事件です。織田信長から家康の嫡子・松平信康が武田家に内通しているという疑いをかけられた際、忠次が大久保忠世と共に弁解の使者に赴きます。信長と面会しますが、一切の弁明をしなかったため、信康が切腹することになりました。この事件により家康との間に亀裂が入ったといわれています。
家康が関東に移封された時、嫡男家次が与えられた臼井三万石は、当時、徳川四天王の他の三人が十万石規模であったことに比べて小禄でした。これに忠次が抗議した際、「お前も我が子が可愛いか」と信康事件の事をひきあいに出したという逸話が残っています。信康切腹の関しては疑問点も多く信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では出されています。
家康は忠次を憎んでいたように思えません。家次の評価が低かったのは、父の忠次が徳川家中屈指の戦上手だったのに較べ、家次には目立った働きがなかったためと考えられます。
関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って中山道を行軍したため、本戦には間に合わず不参加。大坂冬の陣では、大坂城の東側の黒門口を持ち場として戦いましたが、大坂城の堅い守りに阻まれて武功を挙げることはできていません。
さらに大阪夏の陣では激戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて、天王寺口第三陣の大将を任されていましたが、豊臣軍の猛攻により、天王寺口の味方は散々に崩され、家次も敗走します。しかし徳川軍が攻勢に転じると、ようやく敵の首級を獲ることができました。その功で越後高田十万石に移封されます。
徳川最古参の家柄や、家康の従兄弟という間柄も考慮されて、むしろ優遇されているようにも思えます。親の七光りではなく、家次にもっと成長してほしいと考えていたのではないでしょうか。

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