佐竹義重

1547年、佐竹義昭の長男として誕生しました。父義昭は十七代目の佐竹家当主であり、常陸国における佐竹家の勢力の拡大に尽力した人物です。
1562年に父が隠居し、家督を譲られます。この段階では義重に実権はなかったといわれ、円滑な権力移譲のための準備期間であったと思われます。しかしこの、準備期間のつもりの時期に、義昭が35歳で病死しました。
これにより、義昭を恐れて臣従していた勢力が息を吹き返し、義重の敵となり始めます。
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上杉謙信との共闘

この時代はまだ謙信を号しておらず、輝虎を名乗っています。
義昭の代に謙信とは親交を深め、同盟関係にありました。北条家と対決姿勢をとる上杉家としては、関東の有力大名との連携を必要としていました。義重にとっての目下の敵は小田氏治でした。家督を相続する前年にも合戦にて打ち破り、小田城から追い出しているのですが、氏治は何度でも小田城を奪還します。

求心力の低下した佐竹家にあっては、これをすぐさま攻略するということもできず、謙信の介入を受けることとなりました。氏治は結城晴朝を仲介して謙信に下り、なんとか小田城の保持を許されています。小田氏が上杉氏の勢力下に置かれたことで、義重にとっても氏治と戦わずにすむことになりました・・・が、この状況はすぐに変わってしまいます。謙信の下総遠征が失敗に終わったことで、関東における謙信の威信が低下し、小田・小山・結城・宇都宮などの勢力が北条家に従うこととなりました。

常陸内外の敵

義昭の代より敵であった小田氏は仕方ないとして、義重は父の代で傘下におさめたはずの那須氏や、白川氏などとも戦っています。
さらには、北条氏と呼応した蘆名氏にも攻撃され、南北に戦線を抱えることとなりました。南北に強敵を抱える状態は長く続き、途中で北の敵が蘆名から伊達に変わったりもしましたが、長い間義重には休む暇がありませんでした。
戦いに明け暮れ、軍才のあった義重にはたくさんの逸話が残されています。中でも武勇をあらわすものとして、「寡兵で北条軍と対峙したとき、軍の先頭に立って敵陣に切り込み、瞬く間に7名を切り伏せた」という話が有名です。これにより義重は「鬼義重」とか「坂東太郎」と恐れられました。
他には、上杉謙信から備前三郎国宗を譲り受けた話などもあります。後に子の義宣に与えましたが、義宣はこれを削って脇差にしてしまったといいます。義重は嘆いたそうです。

時代の流れ

時は過ぎ、北条氏とは和を結んで南の戦線を和らげていましたが、依然として伊達政宗が強大な敵でした。その政宗との戦いのさなか、豊臣秀吉の小田原遠征が始まりました。かねてより関係を深めていた秀吉の要請に応え、義重は小田原に参じました。佐竹家は常陸五十四万石を安堵され、南の北条はもはやなく、北の伊達もそれ以上動けないというここに至って、ついに佐竹家による常陸統一が目前となりました。
その後、たびたび離反して史書に繰り返し名を出す江戸氏を追いやり、大掾氏も平らげて悲願を達成しています。
しかし佐竹氏による常陸支配は長くは続きませんでした。関が原の戦いの折、佐竹氏は上杉家と密約を交わし、東軍方とも西軍方ともいえないあいまいな態度をとってしまいました。義重はすでに家督を義宣に譲っており、統治も任せていましたが、この件については東軍につくべきだと述べたといわれています。
こうして佐竹氏は、統一したばかりの常陸から出羽へと転封されてしまいました。このとき、常陸の美人を連れて行ってしまったことで、「秋田美人」ができたとするようなお話もあります。
北条と戦い伊達と戦い、ついに常陸国を統一した義重ですが、狩猟中の落馬。六十六歳で亡くなりました。

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