佐竹義昭

誕生から家督相続まで
1531年、十六代目の佐竹家当主、義篤の長男として生を受けました。
父が三九歳という若さで亡くなったため、十五歳で家督を相続しました。義篤も十一歳で家督を継ぎ、幼年ゆえの統率力不足で同族間の争いに突入しています。
義昭のほうはそういった一門同士の争いは起こしていないのですが、父の代で恭順して日の浅い江戸忠通に反旗を翻されてしまいます。しかしこれは、数年にわたる戦いの末降伏させました。
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提案された関東管領継承
ちょうどその頃、関東の新興勢力、小田原城を本拠とする北条氏が勢力を拡張していました。北条氏は扇谷上杉家を滅ぼし、山内上杉家も居城を失うまでに追い詰められていました。その山内上杉家の上杉憲政が義昭の下を訪ねてきました。憲政は義昭に、関東管領職と上杉家を継いではくれまいかと申し出ました。すでに関東管領としての実力を持たない憲政は、縁戚である(5代前の佐竹家の当主は、上杉家からの養子です)佐竹氏に託すことで、上杉の家名と関東管領職を残したかったのでしょう。
しかし義昭はこれを拒絶します。
「関東管領職はありがたいが、清和源氏新羅三郎義光の後裔として、佐竹の家名を捨てることはできない」と。
その後、憲政は越後の長尾景虎を頼り、関東管領職と上杉性を譲ったことはよく知られています。
常陸国統一に向けて
江戸忠通を鎮めたことで、義昭の統治は混乱を免れました。そして、常陸国全土にわたって勢力範囲を広げて行きます。その過程では、常陸国の外にも働きかけています。
宇都宮城主のはずの宇都宮広綱は家臣である壬生綱房に城を追われていました。広綱が5歳のときです。広綱は家臣の芳賀高定に保護されて、挽回を期していました。義昭はこの広綱に手を貸しました。5000騎とも言われる兵を送り、広綱の宇都宮城復帰を助け、実現させました。そして娘を嫁がせて婚姻を成立させ、関係を強固にして、同盟したのです。
さらには岩城重隆、結城晴朝、白河晴綱、那須資胤と、名の知られた人物達と戦い、その全てに勝利しました。こうして常陸国内のほとんどを傘下におさめ、常陸国統一も目前になりましたが、しぶとい敵が残っていました。小田城主、小田氏治です。常陸国内で、佐竹家に対してはっきりと敵意をむき出す最後の敵といってもよいでしょう。
小田城を本拠とする氏治ですが、義昭はこれに勝利することが出来なかったわけではありません。多くの場合、佐竹勢は合戦に勝利し、小田城から氏治を追い出すことに成功しています。ところが何度小田城を奪っても、氏治は戦意を喪失せず、何度でも奪還したのです。
隠居。そして早過ぎる病死
そうしているうちに、義昭は三十を過ぎました。三十二歳になったとき、家督を子の義重に譲り、隠居しました。
十一歳で家督をついで混乱に陥った父や、十五歳で家督をついで江戸氏の反乱を招いたことへの反省ではないでしょうか。あらかじめ後継者を定め、統治者としての経験と実績を積ませておくことで、次世代の混乱を防いだのだろうと。
隠居はしたものの、実権は義昭自身が握り続けました。その頃、義昭は正室を亡くしていたので、継室を迎えました。そして妻の実家である大掾氏に弟を養子入りさせ、家督を継承させました。この婚姻を通して大掾氏の実権を掌握しようというのです。ところが、そうした義重の育成と大掾氏の乗っ取り工作の最中に、35歳という年齢で義昭は没してしまいます。
この早すぎる死によって、佐竹家の常陸国統一は秀吉を待つことになります。一度は大掾氏の当主となった義昭の弟昌幹ですが、義昭の没した翌年には追い出されてしまいました。義昭が残した上杉家(関東管領家を継いだ長尾景虎)との同盟のおかげで、北条家の後ろ盾を得た小田氏治との戦いも優勢を勝ちとりますが、次第に結城や宇都宮などが北条に臣従することとなり、佐竹家の勢力伸張は食い止められてしまいます。











