立花宗茂

九州にその人ありと知られた戦国時代から江戸時代初期の武将です。勇猛果敢で信義に熱い英雄。その人生は波乱に富み、伝記やノンフィクションが数多く出版されています。
立花宗茂は、1567年に豊後の国で、大友氏の重臣、高橋紹運の長男として生まれ、高橋家の跡取りとして英才教育を受けながら育ちました。幼いころから武芸に優れ、聡明でおおらかな性格の彼は、高橋家を継ぐことに何も障害はありませんでした。

高橋家の跡取りから立花家の跡取りへ

ところが、宗茂の優れた資質は、父、紹運の上司であり親友でもあった立花道雪をも惹き付けました。
1581年、十四歳になった彼を道雪がぜひ養子にと望みました。宗茂は高橋家にとって大切な跡取りです。紹運は断りました。
そして、宗茂を伴い道雪とともに筑紫氏との戦いに出陣します。宗茂は石坂の戦いで敵の大将を討ち取り、武人としての功績をあげます。
宗茂の見事な戦いぶりは、さらに道雪の心をとらえ、彼を養子に欲しいと紹運に懇願させる結果となりました。その年の8月、宗茂は道雪の一人娘、闇千代の婿養子となり、立花家の跡取りとなります。
立花家の人間となった宗茂は、雷神と呼ばれた道雪に厳しく鍛えられながら戦功を重ねて行きます。
1584年8月、道雪と紹運が筑後奪回戦に出陣すると、宗茂は千人の手勢とともに立花城の留守を預かりました。これを知った秋月種実率いる兵8千が立花城に攻めかかります。
このとき、十七歳の宗茂は果断な対処を見せました。
まず、内通しようとした櫻井兄弟を粛清し、手勢を三手に分けて果敢に城から波状攻撃をかけます。
そして、夜には夜襲や火計を用いて敵本陣に同士討ちをさせ、浮足立ったところに攻めかかり見事に撃破しました。
続いて周囲の敵の砦を攻撃し、道雪が不在でも立花勢は健在なりと周囲に印象付けました。武勇だけではなく知略にも長けた宗茂でした。

立花道雪と高橋紹運の死

筑後遠征に出た道雪と紹運は、破竹の勢いで筑後を平定して回っていましたが、難攻不落の柳川城の攻略に手間取り、そのまま筑後で年を越しました。
あくる1585年9月、柳川城を攻略中に道雪が病死し、翌年には紹運も薩摩の島津氏の侵攻のために、岩屋城で壮烈な討ち死にを遂げてしまいます。
立花家を継いだ宗茂は、島津勢に対して立花城で徹底抗戦を続けました。そして転機は訪れます。
1586年8月、豊臣秀吉の軍勢が九州平定に南下してきたため、島津勢が撤退を始めます。宗茂はこの機を逃さず、撤退する島津勢を追撃し大打撃を与え、火計で高鳥居城を攻略し、さらには岩屋城、宝満城をも奪回しました。
その功により主君大友宗麟から、秀吉に推挙され、大友氏の家臣から、秀吉直属の家臣に出世します。

豊臣家の家臣として

秀吉の家臣となった宗茂は、秀吉の九州平定で活躍し、筑後の国柳川十三万二千石を与えられ、国持ちの独立した大名になります。
当時の宗茂は東の本多忠勝、西の立花宗茂とその武勇と忠義を並べ立てられる有名な大名でした。
関ヶ原の戦いの直前に、宗茂の人柄を表すエピソードがあります。
開戦の直前に宗茂は、徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍につくように誘われました。
宗茂が豊臣家に恩を受けてから16年も経っています。
宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍に付くのなら命を絶ったほうがいい」と、その誘いをきっぱりと断ります。家中では西軍に勝ち目はないので東軍につくべきと重臣からの意見もありましたが、彼は「勝敗にあらず」と、それを退け西軍に参戦しました。
このとき宗茂は西軍の大名として、伊勢方面に出陣し、東軍の京極高次が守る大津城を攻めます。しかし、攻め落とす前に、関ヶ原で西軍が敗れたため、大阪城に引き返しました。
大きな戦いにならなかった宗茂の手勢は健在でした。大阪城で宗茂は、西軍の総大将である毛利元輝に、難攻不落の大阪城に籠っての徹底抗戦を進言しましたが、その意見は聞き入れられませんでした。結果として、宗茂の軍は温存されたまま所領に引き返すことになります。

旧領を回復した唯一の西軍大名

国元に帰った宗茂は、加藤清正、黒田忠孝、鍋島直茂らの東軍に攻められます。
宗茂の軍は勇猛果敢にこれを迎え撃ちましたが、兵力の差は如何ともしがたく、多数の忠実な家臣を失い降伏、立花城を開城することになりました。
立花城を開場したのちの宗茂は家康によって改易され浪人になりましたが、宗茂を慕ってついて来た家臣たちがいました。
その浪人時代のエピソードとして、こんなエピソードが残っています。
その日暮らしをしていた宗茂一行は食べる物にも困るときもありました。家臣たちは少しでも米を無駄にすまいと、食べ残したご飯を日干しにして保存していました。
ある日、家臣たちが留守にしている間に雨が降って来ました。ところが、宗茂は日干ししていたご飯を取り込もうとはせずに放っておきました。
家臣たちが帰って来たときには、もちろんご飯は雨に流されていましたが、家臣たちは怒ろうとはせずに、逆に「さすがは殿であらせられる。細かいことをお気になさらない」と感心したといいます。
そうした宗茂の人柄は徳川家にも伝わっていました。
改易から1年ほどたった1604年には、本田忠勝の推挙で徳川家康から御書院番頭という幕府の親衛隊の隊長に任ぜられます。
その後、まもなく家康の嫡男秀忠の御伽衆になり、陸奥棚倉に所領を得て大名に復帰することができました。
そのため大阪の役では、徳川の家臣として参戦しています。
彼にとって豊臣への恩は関ヶ原の戦いで返し終わっていたのでしょう、徳川の家臣として忠実にふるまっています。
そして、1620年には、幕府から旧領の筑後柳川十万九千二百石を与えられ、関ヶ原で西軍についた大名では、唯一旧領を復帰できた大名になりました。
その後の宗茂は、徳川秀忠、家光に忠実に仕え、1643年に江戸藩邸で亡くなります。
享年七十六歳の大往生でした。

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