大友義鎮

大友義鎮は戦国時代から安土桃山時代の武将であり大名です。また、キリシタン大名でもあります。豊後国(現在の大分県)大友氏の二十一代目当主であり、法号を宗麟といいます。
義鎮は、1530年(亨禄3年)に豊後大友家二十代目当主である大友義鑑の息子として誕生しました。母は大内義興の娘であるとされています。幼名は塩法師丸であり、宗滴や三非斎などが別号となっています。
義鎮の大友氏は、藤原秀郷という平安中期に存在した武将の流れであるという説もあります。鎌倉期には、鎌倉幕府の御家人衆として勢いを誇るものの、義鎮が幼少の頃には、周防の大内義隆が本家である豊後大友家を狙いとし侵攻してきていたので、分が悪くなってきていたこともあり、1538年には将軍である足利義晴が中に入り大内氏とは和睦をしています。
義鎮は1540年に元服。足利義晴の一字を取り大友義鎮という名にしました。
1550年になると、父の義鑑は家督を継がせるかということに関し、嫡男である義鎮(病弱な上に荒い気性が激しくあまり人徳がなかった)ではなく、三男である塩市丸(父がこちらをより可愛がっていた)に譲ろうかと考え、入田親誠らと共に義鎮側の家臣を殺害していまいます。
これに対し、津久見美作(義鎮側の家臣)などが反撃。義鑑の館を襲いました。館の二階にいた塩市丸や義鑑の側室である塩市丸の母を殺し、義鑑に重傷を負わせました。そして、義鑑は2日後に四十九歳で亡くなりました。これは、『二階崩れの変』として知られています。
その後、義鎮が二十一歳で家督を継ぎ、二十一代目の当主となりました。それに反対していた入田親誠らは廃除となります。
義鎮が二十二歳になった1551年には周防国より北九州方面に大内義隆が侵略してきますが、陶隆房という家臣が裏切ったことから大内義隆は自害します。
陶隆房の申し出を受け、義鎮は弟である晴英(大内義長)を大内家の養子としました。大内義長は大内家の家督を継いでいます。
この時期には、義鎮はフランシスコ・ザビエルに会ったことでキリスト教の布教の手助けをしています。
1555年になると、義鎮は陶晴賢を厳島の戦いで破った毛利元就と対立します。
さらに、1556年には大友家の家臣である小原鑑元が謀反を起こすなどといったこともあり、義鎮の治世は困難な状況でした。
1559年に義鎮は三十歳の頃、足利義輝に多額の献金をして幕府より豊前国・筑前国守護職を正式に拝命しました。さらに、九州探題や左衛問督(1560年)に任官されています。
義鎮は九州における最大版図を築き上げます。しかし1562年には、門司城の戦いの戦において大敗を喫してしまいます。
毛利元就に敗れた義鎮は出家。号を宗麟としました。その後も義輝には多大な援助を続け、毛利家との和睦の調停を依頼。義輝と親密な関係を続けます。
しかし毛利元就が山陰の尼子氏を滅ぼすと、毛利氏との和睦は破れ再び対立します。
毛利側に大友家の重臣、高橋鑑種が加わり激しい戦闘になりましたが、大友家の猛将で知られる立花道雪が平定させます。
1569年になると、毛利氏は九州から撤退。大友氏は豊後や豊前、筑後や筑前などといった国々を支配下としました。
今山の戦においては、龍造寺隆信の家臣である鍋島直茂に敗れてしまいます。義鎮から人心が離れてしまったこともあり、義鎮は1576年に四十七歳で隠居をして家督は大友義統が継ぎました。
長い間、島津氏と大友氏は良好な関係を続けていましたが、1578年に日向の伊藤義祐が島津氏に追われ、大友氏に身を寄せたことをきっかけに、義統は日向国に侵攻をします。(耳川の戦)
この戦いで島津義久に敗れます。義鎮が日向国にキリシタンの国を造ろうと力を注いでいたことで、軍についてはあまり顧みずに、統率がきちんととれなかったため、多くの重臣や兵力を失ってしまいました。
その後キリシタンに帰依し、ドン・フランシスコと名乗るようになります。それからは、家臣への書状に記した署名にも『府蘭』が使われています。
ただ、戦場にあっても後方にいて礼拝をしているなどといったことがあり、兵たちへの指揮が大きく低下したのです。
1586年になると、島津氏が豊後国に侵攻を始めます。そして、岩屋城の戦で高橋紹運という力のある家臣を失ってしまいました。さらに、豊臣秀吉から和睦の命令を受けたことに対して、自ら大坂を訪れ臣下となります。
島津義久はその後も大友領へ侵攻。豊臣軍が戸次川の戦において破れ、義鎮の居城である臼杵城を襲われてしまうものの、『国崩し』という大砲を輸入していたことから、勝利することができました。
大友氏の滅亡も時間の問題でしたが、翌年の1587年、豊臣秀長率いる豊臣軍10万。さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣。秀吉が各地で島津軍を破り島津氏を服従させました。
戦の後には、義鎮の息子である大友義統が豊後国を拝領します。義鎮にも日向国が与えられることになりましたが、義鎮はそれを辞退しています。
この年の6月に、五十八歳で義鎮は亡くなりました。島津義久が降伏をする前に豊後国津久見において病死。チフスで亡くなったとする説が有力です。











