北条氏直は、戦国時代・安土桃山時代の武将であり大名です。また、小田原城主であり、後北条氏五代目当主でもあります。北条氏政の次男として1562年(永禄5年)に小田原城で誕生しました。幼名は国王丸と言います。母の黄梅院が武田信玄の娘であることから、武田勝頼などの甥でもあります。
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1568年の末に、武田氏と今川氏の関係が悪くなっており、武田氏が駿河の今川領国に侵攻をしたことで、氏直は衰退した今川氏の当主である今川氏真の猶子(ゆうし・兄弟などや他人の子と親子関係を結ぶ)となり家督を相続して、この後の駿河領を得る権利を得たと言われています。とは言え、武田氏の領国となったため、駿河が北条氏のものとはなりませんでした。
1571年に祖父・氏康が亡くなったことで父の氏政が家督を継ぎ、武田氏と結んでいた甲相同盟が元に戻りました。
1577年に氏直は元服をして古河公方である足利義氏に初めて書状を送りました。そしてその年に上総国に初陣を飾っています。この戦においては、北条氏が優勢となっており、安房の里見義弘と和睦を実現し、氏政の娘は里見義頼に嫁ぎ、北条氏と里見氏が同盟関係を築きました。これを房相一和と言います。
1580年に叔父である武田勝頼と三島において戦いましたが、決着はつきませんでした。
1582年に、信長が攻めてきたことで勝頼らは敗北して武田氏は滅亡します。甲斐の遺された領地については信長の家臣である河尻秀隆や信濃国の一部や上野国の西側は滝川一益に与えられたことで、一益は関東管領を自称しました。
ところが、その年に信長が亡くなり河尻秀隆も殺害されてしまい、甲斐の首領がいなくなってしまいました。
氏直は叔父である北条氏邦などと大軍で上野に侵攻を始め、倉賀野表(現在の群馬県高崎市)に進んでいきます。
金窪城において北条軍は滝川軍と戦になり、所詮においては氏邦の先鋒が敗れたものの、神流川の戦いにおいては氏直の本軍が一益の軍に勝利を収めました。
一益が敗走していくと、上野国から信濃国に攻め、佐久郡や小県郡を支配。その後、諏訪へと進んでいき、諏訪頼忠を味方としました。
また、木曾義昌(叔母である真竜院の夫)と連絡を取り合うことで中信地方も手中に収めます。
同年に氏直は甲斐国北西部に位置する若神子城に本陣を配置して、徳川家康軍(新府城が本陣)と甲斐若神子城で退陣しました。
甲斐は信玄(氏直にすると祖父にあたる)の旧領国であることから、自身の領にしたいと願う氏直と、80日間かけて徳川軍と対陣しました。
滝川一益が敗退してから真田昌幸などが帰参していたものの、分離してしまいます。そして、別に動いていた北条氏忠や北条氏勝が徳川方の鳥居元忠などに敗れたことで戦は行き詰ってしまいました。
織田信雄ら兄弟の取りなしのおかげもあって、上野国は氏直に、甲斐や信濃は家康の領地となり、氏直の元に家康の娘が嫁ぐという形で両軍の和睦が成しえました。
1583年に、氏直と家康の娘・督姫は結婚します。
家康と同盟を結んでから、氏直は下野や常陸に侵攻し勢いを増していき、佐竹義重などは圧力を加えられます。
とは言え、信長が亡くなった後に豊臣秀吉が頭角を現してきており、関東惣無事令が出されたことで私戦ができなくなったことから、氏直は秀吉との戦に供え1587年より軍備の補強をするようになりました。
秀吉の力も理解しており、1588年の春に家康の取りなしもあり叔父である北条氏規に上洛を促し、秀吉と折衝したのでした。
ところが、1589年に秀吉が沼田裁定によって沼田城を受け取った後に、猪俣邦憲が真田昌幸の支城を奪うという事件が発生したことで、惣無事令に反するということで、秀吉との間が破綻してしまいます。
これに対しては、氏直自身は北条氏が乗っ取りをしたわけでもなく、真田側に返していること、そして昌幸の支城・名胡桃城の城主とされる者の書付を進上するので真実を探って欲しいと秀吉の側近に弁明をしています。
また、家康にも同じく取りなして欲しいと頼んだのでした。しかし、家康は秀吉より小田原城征伐の軍議に出るように言われていたことから、上洛をしていたため、家康にこの依頼が届かなかったのです。
1590年からは秀吉が小田原征伐を開始しました。氏直は、領国で動員を呼び掛け小田原城やそれぞれの支城を修築するなどをしました。
しかし、山中城が落城。小田原城での籠城戦になりました。
籠城は3カ月を要します。
秀吉の率いる大軍が、小田原城を包囲してしまったこと。秀吉の水軍が海上を封鎖したこと。氏直の重臣の庶子が裏切ろうとしたことなどがあって、和議を結ぶこととしました。
氏直が自ら切腹をして自身の兵たちを助けて欲しいと願って秀吉に降伏します。
ところが、秀吉は氏直の申し出に感心して、家康の婿でもあることから命を助けられました。しかし、氏直の父・氏政あんどは切腹をすることになりました。
氏直は高野山に行くことになり、高室院で謹慎。『見性斎』と称しています。
氏直は1591年より赦免活動を始め、秀吉より家康に対して氏直を許すと通知されました。その後大坂において旧織田信雄邸が与えられて、河内と関東で一万石の豊臣大名となります。
小田原にいた妻の督姫も大坂に来て、家臣についても知行を与えることや、謹慎している間の借財について整理をしていましたが、11月に病死しました。
多門院日記には、痘瘡が死因であると記されています。まだ三十歳でした。
氏直が亡くなった後には従弟の北条氏盛(氏規の嫡子)が氏直の名跡や遺領のうち四千石を相続して、1598年に氏規の跡を継ぎ大名となり、北条宗家は河内狭山の藩主として江戸時代末まで続いていきました。