北条氏綱は、戦国時代の武将であり、相模の国の大名でもあります。1487年(長亨元年)に北条早雲(伊豆国や相模の国を平定した)の嫡男です。幼名は伊豆千代丸と言いました。氏綱が生まれた年には、父の早雲は小鹿範満を討ち、甥である後の今川氏親を今川家の当主にしていることから、その働きによって興国寺の城主となっています。
初めて文書において氏綱のことが登場するのは1512年であり、早雲の跡継ぎとなり活動を行っていたことが考えられるので、早雲が大森氏から奪い取った相模の国の小田原城の城地を守っていたと言えます。
氏綱は、1518年に早雲が隠居をしたことで家督を継いで当主となりました。そして、次の年には早雲が逝去したので、伊勢氏(後北条氏)の当主となります。
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初めの頃は北条氏ではなく伊勢氏を名乗っていました。北条氏を名乗るようになったのは、父・早雲が亡くなった後からと言います。早雲は生涯伊勢氏を名乗っており、北条を名乗ってはいません。それでも、氏綱は後北条氏の二代目ということになります。
ちなみに、氏綱より後の当主たちは代々『氏』という通字を用いていますが、これは早雲の別名である長氏や氏茂などの偏諱が由来となっているものとも言われています。
また、氏綱が元服する時には早雲が今川家の姻族や重臣だったので、従兄の今川氏親からの偏諱とも考えられています。
氏綱が家督を相続したことに伴い、伊勢氏は虎の印判状を使う様になりました。印判状がない徴収命令については効力がないとして、百姓・職人に対して郡代や代官が違法に搾り取ることを防ぐ仕組みを作ります。それまでは、守護(国単位で配置された地方官)が百姓に対して直に文書を出すことはありませんでしたが、印判状ができたことで戦国大名が村落や百姓に直接支配をするようになりました。
早雲の時には、伊勢氏の住まいの城は伊豆にあった韮山城でしたが、氏綱はそれまで担当していた相模の小田原城を本城としました。そして、家督相続で代が替わった時に行う検地をおこなうことや安堵状を出すということも実施しています。
1521年から1527年までの大永年間からは、氏綱は早雲寺の創建や、寒川神社宝殿、箱根三所大権現宝殿などの再建を行いました。そして、この間には『相州太守』を名乗っています(氏綱は相模守にはなったとされていません)。この間に、氏綱は伊勢氏から北条氏(後北条)に改姓を行ったとされています。
また、控えるようにしていた軍事的な行動についても再び行うようになりましたが、扇谷・山内の両上杉氏や武田信虎、古河公方である足利高基らが結束したこと、そして上総の国の真里谷武田氏、安房の国の里見氏などによって包囲されてしまったことで、周囲は敵だらけという状況になってしまいました。
こうした苦難も続いたものの、1533年の天文2年には里見氏や真里谷武田氏の間で争いが起きたことで、難を逃れています。
氏綱は、関東に勢力を拡げていく中で、早雲の代から形式的に主従関係となっていた駿河の今川氏との駿相同盟に基づいて、甲斐の武田信虎と戦を幾度となくしていました。1534年には今川氏輝に要請されて甲斐に出陣をして、武田信虎の弟を討ち取っています。この戦は山中の戦いと言います。
1536年に起きた花倉の乱では今川義元を支持していますが、義元が今川家の当主となってから今川家と武田家の間で1537年に甲駿同盟が結ばれています。このことがあったので、駿相同盟は破たんという形になり、河東の乱において駿河に出兵し勝利を収めて独立をしました。氏綱の父である早雲の代に存在した今川家と結んでいた主従関係が解消となったからです。
この年には、四代目の古河公方の足利晴氏と同盟を結んでいます。
次の年の1838年には、第一次国府合戦が起き、小弓公方である足利義明や里見氏と戦をし、小弓公方を滅ぼしています。そして、その次の年に娘の芳春院を足利晴氏に嫁がせて古河公方足利氏の『御一家』という身分を与えられています。
氏綱は、このほかにも鎌倉の鶴岡八幡宮の再建という事業を成し遂げています。鶴岡八幡宮は、戦の中で里見氏によって1526年に焼き討ちに遭ってしまいました。その鶴岡八幡宮を建て直す計画が1532年から行われ、興福寺の番匠が呼び寄せられて翌年から工事が開始となっています。
関東にいる領主たちに奉加(神仏に金品を奉納すること)をして欲しいと求めましたが、両方の上杉氏は応じなかったということです。立て直しは氏綱が没した後まで続き、1544年に完成しました。
氏綱の晩年は、まだ若い息子の氏康が当主の器であるかということを心配していました。1541年には、氏康に五か条の訓戒状というものを伝えています。
この年に、氏綱に敗れた扇谷上杉朝定と山内上杉家である上杉憲政が結託し反抗しようとしていました。
そして、今川軍としていた戦も長引くことが予想されている時に氏綱は病に倒れてしまい、五十五歳で逝去します。このときに、『勝って兜の緒を締めよ』と遺言したことも有名です。家督は嫡男である氏康が継ぎました。