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    Categories: 武将紹介 後北条氏

北条幻庵

北条幻庵(北条長綱)は、戦国時代の武将であり、北条早雲の息子でもあります。1493年(明応2年)に北条早雲と栖徳寺殿(駿河の有力な葛山氏という豪族の娘)の三男として生まれました。末子でもあります。
幻庵は幼少期に僧侶として認められ、僧籍に入り、箱根権現社の別当寺混合王院に入りました。箱根権現というのは、東国の武士にとっては関東の守護神であるとして崇められており、関東一体を支配したいと目論んでいた早雲が、自身の息子を入れさせて箱根権現を制する目的もあったことも考えられます。
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1519年には、父・早雲から4400貫という領有地が与えられました。この頃の幻庵は、菊寿丸と名乗っています。
1523年に、兄である氏綱は早雲の遺志を継ぎ箱根権現が再び造営されています。棟上げ式の際の棟札に39世別当である海実と並び菊寿丸という名も見ることができます。
後には、近江の三井寺には入り1524年に出家しています。出家した年か次の年には箱根権現の40世別当となっていると考えられており、1538年までその職に就いていました。別当になった時には、長綱と名乗っていて1536年頃からは宗哲と名乗っています。
宗哲という名は、大徳寺系の法名(仏弟子になったことの名告り)となっています。
1542年に、甥である玉縄城主の北条為昌が亡くなったことで、三浦衆と小机衆を自身の指揮下にするようになりました。
さらに、1543年に『静意』という印文が刻まれている印判状を使い始めています。幻庵が自分の支配する地域を強力なものとするために始めたものとされています。幻庵の本拠である久野(今の小田原)の地名から『久野御印判』と言われています。
1559年に作成された『北条家所領役帳』には、家中において最大5457貫86文という所領を得ていたとされています。
次に多いのは、2798貫110文の松田憲秀の倍ほどもあり、直属の臣下390名の所領の全てを合わせた分の1割弱が幻庵のものであったということになります。
幻庵は、政治面や僧侶としての活躍がめざましいものがあるものの、馬術や弓に関しても才能を発揮しています。
1535年に武田信虎と戦った甲斐山中合戦や、同じ年に起きた上杉朝興との武蔵入間川合戦などにおいて、幻庵は一軍を伴い合戦に赴いているのです。
さらに、1561年には曽我山(小田原)の上杉謙信との戦で良い働きをした大藤式部丞を賞することを氏康などに勧めています。北条一門の重鎮として宗家の当主や家臣たちに対して密かに力を持っていたのです。
1560年に、幻庵の長男である三郎が夭折してしまったので、次男である綱重が家督を継ぎました。
さらに、北条氏康の弟である北条氏尭を小机城の城主に据えました。ところが、その後に氏尭が亡くなってしまい、その上に1569年に武田信玄と戦った駿河の蒲原城の戦いで次男の綱重や三男の長順などを続けて亡くしたので、同じ年に北条氏康の七男である北条三郎(上杉景虎)を要しとし、家督と小机城を譲り、隠居の身となり幻庵宗哲と号したのでした。
1569年には、越相同盟が成立したので三郎を上杉謙信の養子とした後には、北条氏光が小机城を継ぎ、家督を綱重の子であり、幻庵の孫でもある氏隆に継がせました。
幻庵は1589年に亡くなっています。享年九十七歳だったので、当時であればとても長生きしたと言えます。とは言え、このことについては『北条五代記』に記されているものであり、今の研究によると同じ時代の史料などの古文書などと比べて差異が見られるので、信頼できるものか疑問視する向きもあります。
歴史学者の1人は、幻庵の生まれた年を永正年間だとしています。それは、1522年に棟札が納められた時に菊寿丸と幻庵の名が書かれていることから、十五歳にはまだ到達していないと考えられるからだと述べているのです。
この説が本当ならば、幻庵が亡くなった時の年齢は15年以上年若くなるということになります。
また、他の説には1501年生まれであるというものも存在します。
そして、亡くなった年についても1584年や1585年といった説もあるのです。
幻庵が亡くなってから9カ月が経った1590年の7月には、後北条氏は豊臣秀吉に攻められたことで敗れてしまい、戦国大名である後北条氏は滅んでしまったのです。
久野北条家を継いだ北条氏隆は、北条氏が滅亡した時に最後の当主である北条氏直と共に高野山に入山し、次の年に出家をして釣庵宗仙と号しました。
それからは、讃岐の生駒家に仕官したものの、1609年に亡くなり久野北条氏は途絶えたのです。
幻庵は文化の知識も様々に持ち合わせ、若や茶道、庭園などに通じていた教養のある人物でした。手先の器用さもあり、鞍や鐙を作るのも上手だったと言います。さらに一節切り尺八も自身で独特な作り方で作ることから、『幻庵切り』と言います。
伊豆の修善寺近くにある瀧源寺において一節切りの尺八を吹き、滝落としの曲を自身で作ったという伝説もあります。1536年には、藤原定家の『藤川百書』という歌集を伝えている高井堯慶の諸説に注釈の書を記すなどをしています。

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