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    Categories: 武将紹介 長宗我部家

長宗我部元親

四国の戦国大名。1539年に生誕。父は長宗我部国親、母は美濃斉藤氏の娘。父の考案による一領具足(農民兵、一領とはひと揃え、具足とは武器と鎧)を活用して四国を平定した。
幼少時はおとなしい性格で将来を心配されたが初陣以後は四国の大大名にのし上がるが、時が味方せず、織田信長や豊臣秀吉の後塵を拝する事となった。長宗我部氏による全国制覇、天下統一はならなかった。

◆土佐の統一

戦国武将の初陣は通常14歳~18歳のときである。織田信長は14歳、徳川家康は17歳で初陣を飾っている。長宗我部元親の初陣は遅く、元親22歳の時であった。元親は気性が優しく、幼い時は「姫若子」と呼ばれ、父を心配させていたと言うエピソードがある。しかし初陣以後は「鬼若子」と呼ばれるほど武勇に優れた武将になっている。1560年長浜の戦いで当時、土佐随一であった本山氏の勢力をそぎ、2年後の1562年以降本山氏は衰退していった。そして1575年四万十川の戦いで一条氏を破り、ついに土佐一国を支配する。
この時、一条側の兵力は3、000、元親軍は7、500といわれ、一領具足の制度がうまく機能した戦いであった。

◆土佐の大名から四国の領主へ

阿波、讃岐を支配していた三好氏は織田の猛攻を受けて衰退していたが、三好氏の生き残りである十河氏らの抵抗に元親は苦戦していた。しかし1582年に勃発した中富川の戦いを契機に阿波、讃岐へ勢力を拡大するに至る。中富川の戦いは四国一の大戦で、敗戦した十河氏側は名だたる武将が数多く戦死した。戦死者は双方合わせて1500名あまり、兵力は長宗我部側23,000、十河側5,000であった。
1580年の四国は伊予地方に河野氏、西園寺氏を残して全て長宗我部氏が支配する状態にまでなっていた。しかし伊予の平定には苦戦する。それは伊予の国の大名、河野氏が毛利氏と結び長宗我部氏に抵抗するが、毛利氏の衰退により河野氏もついに長宗我部氏の軍門に下る事になる。
1584年、長宗我部氏による四国統一は成し遂げられる。この時、天下の情勢はどうであったか? 徳川家康が勢力を拡大し、小牧長久手の戦いで秀吉を破っている。有力大名は関東の北条、徳川、天下人秀吉、毛利、九州は島津と大友。ほぼ天下の趨勢は決していたといえる。二大勢力は豊臣秀吉VS徳川家康。長宗我部は秀吉に恭順。

◆時代と四国と言う土地柄に適合した「一領具足」制度

長宗我部氏と言えば「一領具足」、一領とは「ひとそろえ」、具足とは「武器と鎧」のことである。一領具足とは、平時は農民であるが「いざ鎌倉」となれば兵隊に早変わり。農民は普段の農作業で体力的に優れているから兵隊となっても強力である。半農半兵で非常に効率的な武装組織である。しかし農業で生計を立てているという性格上、農繁期に兵として集まらないのが難点でもある。当時の四国と言うと土地柄、および時代背景を上手く利用した「武装集団」として長宗我部氏にとっては頼もしい存在であった。

◆本能寺の変、信長の死で危機を脱出

急速な勢力拡大を快く思っていなかった織田信長は長宗我部氏に対して、阿波と讃岐の割譲を要求し臣従を迫る。ここに織田と長宗我部は一触即発状態となり、1582年に織田による長宗我部氏の攻撃が始まろうとしていた。おりしも総攻撃隊が大阪を出発しようとしていた時に明智光秀の「本能寺の変」が勃発し、信長は急死。四国討伐は延期され長宗我部は救われる。もしも織田の長宗我部征伐が行われていたなら、長宗我部氏は滅亡していたと推測する。武田信玄の急死で織田信長は救われ、織田信長の急死で長宗我部元親は助かったことになる。歴史の巡り合わせとは、なんとも皮肉なことである。

◆秀吉の四国出兵で領地は縮小、再び土佐の大名に

織田信長の死を契機にして豊臣秀吉は急速に勢力を拡大し実質的な信長後継者となった。1583年秀吉は元親に対して、伊予、讃岐の返還を求めるがこれを拒否。しかし秀吉軍に攻められて結局は阿波、伊予、讃岐を没収されて土佐一国のみの領主となる。折角の努力で四国を平定したのだが、強大な勢力には抗しきれなかった。信長の死で一旦は事なきを得たが後継者の秀吉に臣従させられてしまった。

◆秀吉の命で九州出兵、その後朝鮮征伐軍に加わる

1986年、長宗我部元親は嫡男の信親を伴い九州へ出兵、大友氏を支援し島津氏との戦を戦っている。しかし戸次川の戦いで嫡男の信親は戦死する。この時、元親は嫡男の戦死を知り自害を計ろうとするが重臣に止められる。1592年からの朝鮮出兵にも参加している。

◆秀吉の後を追うように死去、家臣思いの優しい武将

1598年秀吉の死をまち、朝鮮出兵は終わりを告げる。1599年12月死去、享年61歳であった。元親のエピソードを1つ紹介。秀吉の大名を集めた舟遊びの折、秀吉からいただいた「饅頭」を食べ残して持ち帰ろうとした。その時、秀吉から何故持ち帰るのかと問われ「殿下からいただいた饅頭、家臣にも食べさせたい」と答えたと言う。秀吉は元親の想いを悟り、いたく感じ入ったと言う話が伝わっている。(奈良の大仏様)


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