宇喜多直家

世の中が乱れ混沌とした世界に傑物現れる。まさに日本の戦国時代には興味深い人物が傑出しました。武田信玄、上杉謙信、徳川家康、織田信長、斉藤道三、豊臣秀吉。中国地方、備前の国、宇喜多直家もマイナーな武将ではありますが、異彩を放つ武将ではないでしょうか?個性的で一風変わった人物といえます。
直家は1529年生まれ、父は興家、母は不詳です。織田信長が勢力を拡大し中国地方に侵入した時、毛利に味方するか織田に付くかを悩んでいたのでしょう。しかし決定的な事は秀吉との出会いにあったと推測します。秀吉は農民から成りあがった身分、直家は武士ではあるが「落ちぶれた武士」、そこから実力で這い上がってきた。名門の出ではないところに親近感を持っていたのではないでしょうか?
◆落ちぶれた家を復活させる
祖父、宇喜多能家は戦い破れて自害したのは1534年、直家は六歳でした。
この戦は正々堂々の戦ではなく浦上家の重臣間の諍いでした。戦いに敗れて切腹するのは時の習いですが、六歳の直家の心中を推し量ると「涙、また涙」でしょう。その後、父の興家に連れられて放浪生活を送ります。
放浪生活のエピソードや記録が残っていないのは非常に残念ですが、この苦労した時代が直家の考え方に影響したと推測できます。
人は成長期の環境がその後の人生観を決めると言われています。当時備前の国は浦上家支配。直家は抜け目なく浦上家に仕官しています。直家にとっては最善の選択でありました。強いものに従うことは戦国のおき手。そしてここからが直家の出世物語です。
◆浦上家で頭角を現し、勢力拡大を図る直家
1566年直家は美作に侵攻した三村家親を浪人遠藤兄弟に命じ鉄砲で暗殺させます。
翌年の明善寺合戦で浦上家に敵対する勢力を一掃します。そして悪名高い暗殺作戦で浦上家随一の家臣にまで、のし上がりました。
1569年、織田に味方して浦上家に反旗を翻すも戦に敗れて浦上宗景に降伏しましたが、この時は運よく帰参を許されます。
その後、浦上氏を駆逐して備前、美作に勢力を拡大し大名となります。
1581年大腸がんで岡山にて病死。
◆優れた戦略家か、それとも腹黒い悪者なのか?
孫子の兵法に曰く、戦わずして勝つのが最善。その為には、あらゆる手を使って相手に勝つことである。正義を言っても死んでは元も子もなしです。直家は「暗殺」をする腹黒い人物であるとの評価は正しいのでしょうか?戦わずして勝つには敵の中心人物を調略、敵将の暗殺、等の作戦・戦略があります。
食うか食われるかの戦国時代にあっては、暗殺も立派な戦略。戦いで勝つのは、多くの将兵を失うことになり誰も喜びません。
戦国時代、御家を存続させることが当主としての使命、第一の目標なので、宇喜多直家は家臣を戦で死なせないという優しい「戦略家」といえます。戦国時代の仕事は「お家を守る」こと。その為には何でもするという気迫がなければ御家は滅亡します。
親族家族を殺した武将は数知れず。織田信長しかり、武田信玄、豊臣秀吉も親族を殺戮しました。直家は戦国時代の戦略的武将と言うのが正解ではないでしょうか。
◆織田信長の中国侵攻で毛利から織田に寝返る?
織田信長と毛利元就、決定的な違いは何でしょうか?織田信長は天下統一の野望を持った日の出の勢いがある人物、方や毛利元就は全国制覇の野望はなく、毛利家を守る事を第一と考えていた武将です。
直家はそのような二人を見て織田信長に付くと決めたのでしょう。戦国の世は強いものに付くか、自分が強くなければ滅ぶのが運命です。
見方によっては毛利を裏切って織田に付いたと見えますが、そうではありません。
当時の価値観から判断して、勢いのある織田信長と、家を守る事を考える毛利元就を比べると、宇喜多家存続の「当然で常識的な判断」と言えます。
◆宇喜多家存続の礎をつくるが実子の秀家は関ヶ原で敗戦
直家と秀吉の親交はよく知られています。直家の子の秀家は秀吉に可愛がられて「秀」の字をとって「秀家」と名前を付けています。
直家の運気が上昇したのは、もちろん本人の才能と努力のたまものですが、秀吉との出会い、毛利から織田に味方したこと。秀吉と仲が良かったことが関係して、宇喜多家は毛利家と並ぶ中国地方の大大名となり豊臣政権の屋台骨を支える大名にまで出世します。
残念ながら関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は西軍に味方(西軍最大の兵力17,000)して敗戦の将となり、紆余曲折の後に八丈島に島流しとなりました。











