近藤勇の名言です。

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幕末の人物

新撰組が尊王攘夷派に時代遅れと馬鹿にされて「井の中の蛙大海を知らず」と云われたとき、近藤勇が「井の中の蛙大海を知らず。されど空の高さを知る」と答えた新撰組の作品があります。まさに近藤勇を筆頭とする新撰組を物語っているフレーズではないでしょうか。
新撰組は、当時の「主君に仕える武士以上」の武士であろうとしました。
それは百姓に生まれ、加藤清正をはじめとする武士への憧れが強かったからでしょう。
時代や社会がどうあろうが新撰組が最期まで貫く武士道。
その志が現代の新撰組人気の根底にあるのかもしれません。
名言の紹介とともに新撰組を率いた局長、近藤勇について触れていきます。

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武家の娘の夫へ

1834年武蔵国多摩郡上石原村の百姓の三男として誕生し、1849年15歳で江戸の牛込にある天然理心流剣術道場の門下生となります。世にいう「試衛館」です(本当は試衛場のようです)。翌年には目録を受け、道場主の近藤周助に見込まれて養子となります。
1860年には徳川家家臣の松井八十五助の長女、つねと結婚します。憧れの武家の娘を嫁に迎えたのです。
翌年には天然理心流宗家四代目襲名披露野試合を行い、27歳にして宗家を継ぎます。
1862年には娘たまが生まれています。

壬生浪士組結成

旗本である松平忠敏と清河八郎が画策して、第十四代将軍徳川家茂上洛警護の浪士組を募ります。
試衛館からは斎藤一以外の8名が参加し、京を目指しました。途中宿割りで不手際があり、水戸藩芹沢鴨が大激怒、当てつけのように往来で大たき火をし、近藤は謝罪したといわれています。
しかし京に着くと突然清河が「尊王攘夷」のための組織であることを皆に告げました。つまり幕府ではなく天皇を中心にする公家中心の国造りを画策していたのです。
近藤は浪士組と袂を分かちます。芹沢鴨を含め24名が京にそのまま残ったようです。
二十四名は京の壬生村に分宿します。
1863年3月、二条城にいる京都守護職の松平容保に嘆願書を提出し、認められ、名を「壬生浪士組」に改め、会津藩預かりとなりました。

新撰組誕生

同月、近藤らは四条大橋で下総浪士の殿内義雄を暗殺します。殿内は幕府の依頼を受けて浪士組を探っていたようです。同様にして殿内派は瓦解しました。
ここから粛清と暗殺の嵐が吹きすさぶことになります。
壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二代派閥体制となります。
8月18日に「八月十八日の政変」が起こり長州藩は京を追われます。長州の残党狩りで功のあった壬生浪士組はここに至り「新撰組」の隊名を下賜されました。
すぐに近藤は新見錦を自害に追い込み、田中伊織を暗殺、そしてついに局長の芹沢鴨の寝込みを襲い暗殺に成功。新撰組は近藤派で統一されます。

■池田屋事件

1864年将軍家茂が入京し二条城に入ります。松平容保は陸軍総裁職・軍事総裁職となります。
この時期、近藤はなぜか新撰組七番隊組長の谷三十郎の弟の周平を養子に迎えます。一説には備中国松山藩の板倉勝静の落胤だったからともいわれています。
武士に強烈な憧れとコンプレックスを持つ近藤だからこそ、この血統に魅力を感じたのかもしれません。しかし周平は戦場で臆病風に吹かれ、それがもとで近藤から遠ざけられ、1867年に養子縁組を解消されています。その前年には兄の谷が謎の死を遂げています。近藤の外戚であることを笠に着て横暴が目に余り粛清されたといわれています。
1864年6月、熊本藩士宮部鼎蔵下僕を捕縛後拷問し、謀反計画を知ります。
有名な池田屋事件です。ここで宮部派は壊滅。新撰組は朝廷と幕府の両方から称賛され、感状などを賜っています。
ここで近藤は一度江戸に戻り、隊士を募兵し、伊東甲子太郎らを引きつれて京に戻るのです。

鳥羽・伏見の戦い

1866年に第二次幕長戦争が始まろうとしていましたが、7月に将軍家茂が死去。停止となります。
この年の近藤はまさに政治家のように各地を回ります。
1867年に伊東が御陵衛士という新組織を結成、新撰組隊士は全員晴れて幕府の直臣となり、近藤は旗本となります。
12月に伊東の暗殺に成功するものの、その残党の待ち伏せに遭い、肩を狙撃されました。
1868年の鳥羽・伏見の戦いは大阪城で療養しており戦闘には加わってはおりません。
富士山丸に乗艦し江戸に戻ります。

甲陽鎮撫隊結成

江戸に戻った近藤は大久保剛や大久保大和と名を変えて兵を募兵します。甲州城を押さえに向かったところを薩長軍に先を越されて、勝沼の戦いで敗北、ここで生え抜きの同志である原田や永倉とも袂を分かちます。
そして下総の流山で駐屯しているところを官軍に捕縛され、近藤であることを見抜かれ斬首されています。享年33歳。
逸話
偽の虎徹を売りつけられても、それが長曾禰虎徹興里だと信じれば斬れるし、本物の虎徹であっても疑えば斬れなかったようです。
この逸話は武士に生まれていないが故に本物の武士らしくあろうとした近藤自身にように思われてなりません。
死後、近藤の兄の次男を養子に迎え、近藤の娘のたまと結婚して近藤家を継いでいます。

近藤勇の名言です。

人の道
忘れてはならぬものは 恩義
捨ててならぬものは 義理
人にあたえるものは 人情
繰返してならぬものは 過失
通してならぬものは 我意
笑ってならぬものは 人の失敗
聞いてならぬものは 人の秘密
お金で買えぬものは 信用

近藤勇の辞世の句です。

孤軍援絶作囚俘      孤軍たすけ絶えて俘囚となる
顧念君恩涙更流      顧みて君恩を思えば涙さらに流る
一片丹衷能殉節      一片の丹衷よく節に殉ず
雎陽千古是吾儔      雎陽千古これ吾がともがしら
靡他今日復何言      他になびき今日また何をか言わん
取義捨生吾所尊      義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快受電光三尺剣      快く受けん電光三尺の剣
只将一死報君恩      只まさに一死をもって君恩に報いん

近藤勇の漢詩です。

丈夫立志出東関      丈夫志を立て東関を出づ
宿願無成不復還      宿願成らずんばまた還らず
報国尽忠三尺剣      国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨而在腰間      十年磨きて腰間にあり

富貴利名豈可羨      富貴利名豈に羨むべき
悠悠官路仕浮沈      悠悠として官路の浮沈に仕ふ
此身更有苦辛在      此の身に更に苦有りて辛在らんと
飽食暖衣非我心      飽食暖衣は我が心にあらず

摩挲源将木人形      源将の木人形を摩挲(ましゃ)し
自説盛功爾我儔      自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり
猶有一般優劣処      なほ一般の優劣の処あり
鉞矛他日凌明州      鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

負恩守義皇州士      恩を負ひ義を守らん皇州士
一志伝手入洛陽      一志を手に伝へ洛陽に入る
昼夜兵談作何事      昼夜の兵談何事かなさん
攘夷誰斗布衣郎      攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

百行所依孝與忠      百行の依る所は孝と忠なり
取之無失果英雄      之を取りて失無ければ果して英雄
英雄縦不吾曹事      英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも
欲以赤心攘羌戎      赤心をもって羌戎を攘んと欲す

孤軍援絶作囚俘      孤軍援け絶え囚俘となる
顧念君恩涙更流      顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る
一片丹衷能殉節      一片の丹衷よく節に殉ず
雎陽千古是吾儔      雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

曾聞蛮貊称五臣      曾て聞く蛮貊五臣を称すと
今見虎狼候我津      今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと
回復誰尋神后趾      回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん
向来慎莫用和親      来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

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