矢沢頼康

1553年(天文22年)生まれ。官位は但馬守、三十郎。
矢沢頼幸ともいい、従兄弟には真田昌幸がいます。頼康の父親が、真田信繁の祖父である真田幸隆の弟です。頼康の父である頼綱は、真田家の人間でしたが、敵対関係にあった矢沢家との和睦のために矢沢家に養子として入ったため、矢沢姓になっています。
頼康は真田家の信繁や信幸などと同世代位になりますが、信幸よりも頼康の方が年上であることもあり、面倒を見ていたということもあるかもしれません。真田信繁より十七歳年上です。
真田家にとって、信頼できる一門衆(本願寺法主の嫡子以外の子)であり、後に、真田家を昌幸が継ぐと、頼康は筆頭家老になり真田家のために働きます。戦場での戦いで真田家を支えた名将です。
若い頃から頼康は、父である頼綱が沼田城代であったことから、それに付き従っており、天正年間においては、城代を任されるほどであったともされています。
また、1585年3月に頼康と父・頼綱は真田昌幸から沼田城代としての働きを認められ、褒美として房山という地をいただいています。
1585年は、真田家と徳川家に軍事的な衝突が起ころうとしている時期でした。そのため真田家と上杉家が同盟を結ぶため、真田信繁が上杉景勝の元に人質として行くことになりました。信繁が人質として上杉家に赴く際には、警護の任を担います。
同じ年に第一次上田城の戦いが起こりました。徳川家康が鳥居元忠などの7000人の軍勢を率いて真田昌幸のいる上田城を襲います。
その際に、真田家が上杉景勝に支援を求めました。景勝が頼康を真田家に戻らせ、その後に援軍を送ります。その援軍と共に頼康の本拠である矢沢城に800人ほどの軍勢で籠城しました。
矢沢城は上田城から東に6キロほど離れた場所にあり、矢沢城は上田城の補助的な役割を担う支城でした。
頼康は、この戦において敵である依田源七郎の1500の隊を追い払い、家康の軍勢が敗走していく際の追撃の戦では、神川という場所において大久保忠世などを追い詰めます。あと一歩のところで逃げ切られてしまいましたが、徳川方には脅威となりました。
その後、父・頼綱が隠居。頼康が矢沢家の家督を継ぎます。関ヶ原の戦い後は、真田家の当主である信之に仕えました。
大坂の陣においては真田信政や真田信吉らが信之の代わりとして出陣したことで、頼康が支えとして供をすることになります。
ただ、大坂の陣においては頼康や信政らと真田信繁が直接対戦したという記録などは残っていません。
出陣する前には、信之が頼康に向けて「油断をしないように」と、書状を送ったそうです。そして、信政らを守るために頼康に乗馬衆5名と足軽衆12名を用意してくれました。
その後も頼康は真田家の重臣として仕え、六十八歳で亡くなっています。頼康自身には子供がいなかったため、弟の頼邦が跡を継ぎました。矢沢家は代々真田家を盛り立てる家老職に就いています。











