島津義弘に愛された吉田温泉

宮崎県えびの市の矢岳高原の麓にある吉田温泉は、宮崎県内で最も古い温泉であり、またの名を「鹿の湯」と言います。天文年間に霧島山が大規模な噴火を起こし、その影響で地殻変動が生じたことによって湧き出したのが吉田温泉の始まりです。そして、傷を負った鹿がこの温泉で体を癒しているのを見つけた住民によって「鹿の湯」という名前が生まれたそうです。
吉田温泉が湧き出した当時、この地は島津家の領土であり、「鬼島津」の異名で知られた島津義弘が当主として君臨していました。島津義弘は、天文4年(1535年)に島津家の第15代当主である島津貴久の次男として生まれます。当時の島津家には、島津義弘の長兄である義久を筆頭に四人の男子がおり、島津四兄弟として武名を馳せていました。
島津義弘も天文23年(1554年)に岩剣城の戦いで初陣を飾ったのを皮切りに、弘治3年(1557年)の蒲生城攻め、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いなどで、その勇猛ぶりを全国に轟かせます。
吉田温泉は、島津義弘が戦いで負傷した兵のためにと指示をして湯治場として整備したと伝えられています。特に、「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦いは、勝利はしたものの島津家側でも8割以上の兵が戦死するなど壮絶なものでした。家臣をなにより大切にしていた島津義弘にとって、負傷兵の存在には心を大きく痛められたことでしょう。
また、戦国の乱世の中で、兵力が削がれたままにしておくのは危険も大きかったことと思われます。戦国の世を生き抜くためにも湯治場は必要不可欠な存在だったようです。
湯治場を整備するだけにとどまらず、吉田温泉の力によって兵士が救われたとして、その感謝を示すために天正5年(1577年)には湯屋を改築して湯権現社の建立も行っています。このように吉田温泉は島津家御用達の湯治場として丁重に扱われ、湯守役として郷士を近くに住まわせるとともに、管理規則も定められていたようです。島津義弘自身も永禄9年(1566年)の小林城攻略戦で負った傷を癒すために吉田温泉に湯治に訪れていたと伝わっています。
時代が下った後も吉田温泉には薩摩藩士が足しげく通い、維新の志士として有名な西郷隆盛も訪れていたとのことです。吉田温泉は今もひなびた温泉街の風情を色濃く残し、隠れた名湯として全国から当時客が集まっています。その泉質は、炭酸水素塩泉で切り傷に良く効くとされています。島津義弘をはじめとする勇猛な薩摩隼人に愛された吉田温泉は、今も人々の体を癒し続けています。

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