X
    Categories: ゆかりの温泉

前田利家も愛した草津温泉

群馬県草津町にある草津温泉は、江戸時代の朱子学者である林羅山から日本三名泉と称えられるなど、古くから人気を集める温泉です。
草津の語源は「臭水(くさみず)」から来ていると言われており、その由来のとおり、硫黄の香りが強いのが特徴的です。
草津温泉は優れた効能を誇り、特に皮膚病に効くと言われています。明治時代には、お雇い外国人のドイツ人医師にもその効能を認められ、多くの療養施設が近隣に作られました。また、硫黄が多く含まれることから、湯の花も採取でき、お土産品として人気を集めました。
草津温泉では、湯畑を設け、そこでは源泉を樋に流すことによって、湯の花を析出させています。草津温泉の湯畑から採られた湯の花は良質な入浴剤として重宝されてきました。
切り傷から皮膚病にまで効くといわれていたため、草津温泉は古くから「万病に吉」として、多くの湯治客が訪れてきました。
戦国武将もその例に漏れず、戦の傷を癒すために多くの武将が訪れています。特に戦国時代においては湯治場としての役割が重要視され、草津の湯治客からとる湯銭が武将の収入源となる時期もありました。
豊臣秀吉が徳川家康に草津入湯を勧めた書状も残るなど、その効能が全国に知れ渡っていたようです。歴史的にも豊臣方の武将・人物に好まれていたようであり、天正10年(1582年)には、丹羽長秀が甲州・天目山の戦の疲れを癒すために堀秀政、多賀新左衛門らとともに訪れたと伝えられています。
秀吉の妹である朝日姫も病気療養のために訪れ、甥の豊臣秀次も九州征伐の翌年の天正16年(1588年)に湯治に訪れたと伝えられています。そして、豊臣方の中でも最も草津温泉の効能に頼ったのが前田利家でした。
利家は、天文7年(1538年)に尾張国荒子の前田家の当主である前田利春の四男として生まれ、天文20年(1551年)からは織田信長に小姓として仕え、槍の又左として勇名を轟かせました。信長亡き後は、秀吉と天下統一のための道をともに歩き、北陸道の惣職として加賀百万石の基礎を築きました。このように戦国時代を駆け抜けた利家が最後に癒しを求めたのが草津温泉だと言われています。
利家が亡くなる一年前の慶長3年(1598年)に一族を引き連れて草津温泉に湯治に訪れています。豊臣政権の重鎮として、老齢にもかかわらず隠居をすることも許されなかった前田利家にとって、自身の病状はなによりの心配の種だったのかもしれません。湯治の一行には謡曲師や楽師も含まれるなど、盛大なものだったと伝えられています。

sengoku m :